今なお残る弘法大師の足跡。現国道と交差する歴史の道。

 
 田麦俣を過ぎ、道の両端はまた木々に囲まれる。その間をしばらく進むと七ツ滝が見えてくる。春は若葉、秋は紅葉を縫って白糸のように美しい水が流れる様は優美だ。落差が上方50m、下方40mある。神の滝とされ、滝の途中には湯殿山、月山に向かう行者がこの優美な滝に打たれ篭り、身を清めて修業を重ねたという洞穴(奥の院)がある。 さらに進むと、蟻腰坂にさしかかる。名前のように、人が蟻のように這って上らなければならないほどの急坂で、わずかに一人がやっと通れるほど、雑木が道の両側に迫り、水も随所に流れ出ている湿地だ。丑年で参詣者がどっと押し寄せて来たときなど、ここではさながら白い蟻の行列のようになったことだろう。ここも十王峠同様、かなりの難所とされていた。



 蟻腰坂を過ぎ1kmほど上ると、田麦俣が一望できる約10m四方の広場になっている。ここには弘法大師が休息したと伝えられる茶屋跡があり、燈竜一基と碑三基がかたわらにある。さらに約1.8kmほど進むと、六十里越街道の中で一番紅葉が美しいといわれる花ノ木坂に出る。この古え漂う旧道が、月山道路と交わりいったん切れた後また旧道へと入って行く。この辺りにはブナの樹海が広がり、時折りリスやカモシカなど野生の動物に遭遇する。私たちが調査に訪れた二日前も、道の脇にあるどんぐりの木に、月の輪熊が登っているのを渋谷氏が発見、その際折れた枝がまだぶらさがっていた。 道の右を少し下ったブナの根元から湧出している独鈷清水と、そのすぐそばのねじれ杉にも弘法大師にまつわる伝説がある。


  大師が独鈷(密教で使う仏具で、両端がとがった短い棒)で大地を突いたところ、水がこんこんと湧き出た。この泉で大師は行水をし、傍らの杉の葉で手を拭いたために葉の先がよじれたという。杉は目通り1.5m、高さ30mあり、地上3.6メートルのところから幹が2本に分岐した樹形の整った美しい木であった。もちろん葉の先は一様によじれていたという。昭和32年12月の大風のため杉は倒れてしまったが、現在株分けした苗木を元の木のすぐ脇に楠えている。 街道沿いには「独鈷杉永代保存之碑」(山田文明撰文、酒井忠篤書、大正2年7月建立)と小さな地蔵が一体ある。その先400mほど急坂を上ると、弘法大師が荊を分けて道をつくり、ここで護摩祈祷をなしたという言い伝えがある護摩壇がある。護摩壇を過ぎると通称座頭転がしという登り坂がある。道なりにまっすぐ進むと急に右に曲がり、その先は地すべりによってできた断崖。道が続いているものと錯覚した座頭が、杖を頼りに進むと落ちてしまうことから、この名が付いた。一本杉の大木がある地点には、護(御・五とも書く)身仏と茶屋跡の平地がある。さらに一ノ坂、ニノ坂とほぽ平坦な道が続く。やがて道幅約2mの小堀(コホンノギ)とその先の大堀(オオホンノギ)という、山を開削して作られたところをくぐり抜け、やがて湯殿山碑に出る。


独鈷杉  図 39 独鈷清水 図 38 花ノ木坂 図 37  弘法茶屋跡 図 36
独鈷杉 ( 通称ねじれ杉 ) 弘法大師が独鈷清水で行水し、この杉の葉で手を拭いたため葉の先がよじれたという天然杉。現在は二代目。 独鈷 ( 密教で使う両端が尖った短い棒 ) で大地を突いたところ、水が湧き出したという独鈷清水。 花ノ木坂の旧道。現国道112号が花ノ木坂を横切って走る。 旧道には弘法茶屋があり、その前は視界が広がり、絵の通り田麦俣が一望できる 庄内領郡中勝地旧蹟図絵の弘法茶屋

湯殿山碑 図 43 大堀 図 42  小堀 図 41 護摩壇 図 40
梵字川沿いの大きな岩の上に建つ湯殿山碑。 山を堀り抜いた大堀
( オオホンノギ )
小堀 ( コホンノギ ) 弘法大師が護摩祈祷したといわれる護摩壇。

制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所