大日寺入口 に建つ湯殿山碑


出羽三山信仰図

 参詣者は行者またはお行様と呼ばれた。この「お山詣り」をするには参加する者たちは○○講をつくり、まずは行屋に篭って一週間の間・斉戒木浴(生もの食べない)の修業を積む。男子は十五才になると無病息災であることを願って何はさておいても「お山詣り」に参加させる習しであった。これを「初お山」あるいは「初詣り」といった。この修業期間中は家族も同様に精神料理を食べ、口説論争を慎み、無益の殺生を避けた。いよいよ出発の日には家を清め、屋根の上に神主がお祓いに使うときの細長い白紙を切って挟んだ御幣を立てた。行者は白衣に身を包んでワラジをつけ、笠とゴザを持ち、ゴザには住所と氏名の他”天下泰平・五穀豊饒・諸願成就・家内安全”などと書いて、食糧や奉納する五穀・みがき銭などを背負い、八角の金剛杖を手にして旅立った。出発は概ね夜間または未明。タイマツを先頭に講中の人々は村人の見送る中、法螺貝の音を合図に威風堂々と繰り出して行った。


  千葉、茨城、相馬方面の行者は浜街道を通って七ケ宿街道を径て、二井宿から黒鴨に宿泊した。福島、茨城の西部、栃木方面の行者は板谷峠から米沢を経て黒鴨に向い、栃木の西部、会津の行者は綱木峠を経て米沢に下ってこれと合流した。黒鴨には行者の通った石の門が今も倒れて残っている。
 県内置賜東部の行者は赤湯から織機川をのぽって大石を経て黒鴨に入り、合流して茎峰峠を越えて大井沢に下り、中村の大日寺を経由して六十里越街道に入った。 陸前方面からの行者は笹谷峠か二口峠から村山に入り、大部分は山形を経由し六十里越街道へ向かった。七ケ宿街道から入った行者は上ノ山で一泊して山形に向かい、船町・長崎へ出、ここで二口街道を経て漆山からまっすぐに長綺に向かった行者と合流した。
  また、陸前からくる行者は、この他のコースとしては関山峠・軽井沢峠を越え、天童を経て寒河江で六十里越街道に出た。中には東根・谷地を経て途中慈恩寺に参拝する者もいた。中山町長崎の最上川に近い渡辺家の庭先には高さ1.5メートルほどの室暦四年(1754)の地蔵尊が立っており、この地蔵尊には「左大井沢・右本道寺・右山形街道」と彫まれている。
  南部方面からは山刀切峠を越え、大石田から船で下る者、あるいは境田を越え、小国向町に出て、ここから舟形で船に乗るか、清水もしくは本合海から船で下る者も多かった。 秋田横手盆地方面から来る行者は羽州街道を通り及位、金山から新庄に出てそこから本合海で船に乗った。古口は船宿で、下流には出舟、岩花の村があり行者船を見つけるとここの村の女衆たちは小舟で乗りつけ酒と餅を売って生活していたという。 古口から清川の間は峡谷で俗に山内と呼ばれ、陸路らしい陸路はなくもっぱら川船を利用した交通が行なわれていた。行者は清川あるいは狩川から上陸し、三ケ沢を経て羽黒山の宿坊手向に向ったが、ここで越後・佐渡からきた者や鳥海山の西麓を通って来る由利郡、秋田方面の行者と混じ合って羽黒山を詣でた。 庄内藩では大網に人改番所を設け行者を取り扱った。六十里越街道を利用する行者は注連寺か大日坊のいずれかで入山許可証を受け、二里ほど奥の田麦俣で宿泊する者が多く、そして、仙人沢を経て湯殿山に参詣した。ただし、女人禁制の月山に登れない庄内の婦人たちは大日坊か注連寺に参拝して帰るのが普通であった。



制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所