宿場町だった田麦俣。文化財指定の多層民家。

 
 峠道を宝珠山(戦国時代の楯があったと伝えられる)、塞ノ神峠に上ってゆくと、頂上に明治四年建立の湯殿山碑がある。ここにはかつて掛茶屋があったという。街道と月山道路が交わる于前に、柳清水がある。弘法大師がここで小憩し、清水をすくって喉を潤した。また昼食に用いた柳の箸を地中に立てると、次第に芽吹き大きくなったという、伝説の柳の木が清水のすぐそばにある。月山道路を渡り急坂を下ると田麦俣の集落に入る。田麦俣には内陸から入ってくる者と、庄内から入ってくる者に対する番所が二か所、置かれていた。六十里越街道田麦川に架かる田麦橋は、徳川時代藩主酒井氏が参勤交代の通路として使用した。藩主の管理下におかれ、十三年ごとにかけ替えられ、用材は御用木と称し、その土地の所有者といえども、勝手に伐採することは禁じられていた。最初のころはシヨジ木を用いていたが、良材が乏しくなり、杉に取って代わった。 


  杉を運搬する地引き方は大網の人夫、梶とりの係は田麦俣の人夫と部署を決め、出張した藩士の監督のもと、藩より下付された大綱(径五、六寸)を使って運びだされた。じびき当日は、ほら貝の音と共に、木遣唄声があたりに響きわたり、それに合わせて数百人がかけ声をかけ、巨木を引いていった。この土地は田畑の生産高が少ないところで生計は主に鶴岡城下で使う薪の伐り出しと行者の宿泊の賄いや道案内・背負子で立てられていた。背負子とは、決められた区間をリレー方式で荷渡しする仕事で、庄内からの海産物を内陸に運んだ。田麦俣の背負子は志津までの六里を担当し、五貫匁の荷を一日三十八銭で、吹雪の中であろうとも運んだ。江戸時代には、田麦俣集落の家数はおよそ三十軒あり、その中に永楽屋を始め、七、八軒の旅籠屋があった。元来庄内藩の山守の定住地として発生した集落として伝えられる。今回六十里越街道の道案内をして下さった渋谷渉氏はその子孫であるという。また、明治時代まで田麦俣から蟻越坂を登る白い行列が絶えず見え、夜になると松明の灯がゆらゆらと続いていたという。この田麦俣は大日坊の出張所で、本道寺に対する志津のような集落。明治八年神道となり一時は三山社務所の出張所ができて入山許可証を発行したときもあったが、行者が減ってからはもっぱら養蚕に励んだ。



 田麦俣といえば多層民家が有名だ。養蚕に適したこの土地の代表的な家屋で、外見的には一層に見えながら、内部は三階にもなっている独特の形を持った民家だ。三階部分は蚕の上蔟、物置として襲われていた。養蚕は多収入を得ることができるので、蚕のことを「お蚕様」と呼び、大切に扱っていた。かつてはこの集落のほとんどがこの多層民家だったが、現存するのは県指定有形文化財の「遠藤家住宅」他二軒と、鶴岡市の致道博物館内に移築された「渋谷家住宅」(国指定重要文化財)のみとなっている。田麦俣に残る三軒のうちの一軒は、現在宿泊施設として使われている。中もじっくり見学でき、月山で採れた山菜料理や、手作りのゴマ豆腐などでもてなしてくれる。



長谷堂合戦図屏風
戸部一敢斎筆に描かれた最上義光
今はもう幻の朝日軍道
 戦国末期の慶長二年(1597)、米沢藩の上杉景勝が、領内である置賜と庄内にある自領の飛地を結ぶため腹臣の直江兼頼に命じて、二年がかりで米沢〜長井〜葉山〜大朝日岳〜似東岳〜猿倉山〜大鉢へと続く60kmにもおよぶ軍道を切り開いた。測量は夜間に提灯をともして行った。慶長五年(1600)に天下分け目の戦いが行われ、東軍についた最上氏の軍と西軍についた上杉氏の間にも合戦があった。そのとき、多くの軍勢がこの軍道を往復したと思われる。ちなみに最上軍が勝利をものにした。その後戦争もなくなり、軍道としての役割は終わり、次第に人はこの道から遠ざかり、 「幻の軍道」となってしまった。今もなお似東岳等にイナズマ型の道が残る。

七つ滝  図 35 田麦俣番所跡 図 34 田麦俣と現国道 図 33  田麦川を渡る川跡 図 32 田麦俣 図 31
紅葉に映える田麦俣の七つ滝。 昔の番所跡に立つ田麦俣の名物時計塔。 田麦俣から見える現国道。 田麦俣に残る旧道。多くの供養塔や石碑が残り、この先で田麦川を渡る橋の跡もある。 昭和40年代の田麦俣の集落。まだ茅葺き屋根の家々が残っていた。


制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所