十王峠から松根に下る途中にある
右湯殿山、左大滝山の道標。

古代の出羽国の交通路はどうなっていただろうか。「続日本書紀」によれば、陸奥国多貿城と出羽国秋田城とを結ぶ軍用道路として天平宝字三年(759)玉野・避翼(猿羽根)・平戈(金山)・横川・雄勝・助河などに初めて駅家を置いた。さらに、平安時代に作られた「延喜式 」延喜五年(905)醍醐天皇の命により編纂された律令の施行細則をみれば駅馬・伝馬の配置は次のようになっている。 主要道路は陸奥の小野駅より笹谷峠を越えて最上(山形)に入り、村山(東根付近)、野後(大石田)、避翼、佐芸(清川 )、遊佐・蚶方、由利、白谷を通って秋田に至る。内陸と庄内とを結ぶ区間では最上川を利用し、川添いの駅には船も配置されていた。
  では、いつ頃から六十里越街道という名前が歴史の舞台に登場してくるか。今の所はっきりとした資料はない。出羽三山、湯殿山の参詣道路としてこの道が開かれたことを推察すれば弘法大師による開山は大同二年(807)今から約1200年前の事となる。この頃すでに羽黒山は山伏の道場として形態を整え、六十里越街道筋にあたる注連寺は天長一〇年(833)羽黒の衆徒渡辺氏が開き、仁寿二年(852)には大日坊が建てられている。 出羽に国府(藤島町平形)を置いた頃、陸奥の国府との運絡に庄内地方と内陸他方の陸地による最短の連絡路として六十里越街道が使われたと考える事ができる。また、奈良朝廷の役人が出羽の柵に赴くにはこの道を利用したと 「出羽風土記」から読みとる事ができる。国府があった藤島町「藤島町史」でも調査研究され、十王峠−松根−黒川−高寺−狩谷目−大半田を経て出羽柵(城輪 )方面に通ずるとしている。


  古代における出羽国の歴史は朝廷による蝦夷征服の歴史でもあった。蝦夷の反乱がおきるたびに中央から幾たびか征夷軍が送られた。坂上田村麻呂の派遣延暦十一年(792〜二度に渡って征討する)もその一つである。「むかし田村将軍の末裔羽黒山へ落ちると言えども生計立ち難く大平村に来たりて居往す」という朝日村大平部落の開村伝説もこれらを源流とするものだろう。奈良、平安時代当時の出羽国の山野は原生林で覆われ、蝦夷が河湖の岸や山麓に居住しているだけで実に荒涼たるものであった。国は設置されたものの庄内地方の開発は遅れていた。このような土地に政府は柵をつくり諸国から多くの屯田兵を侈して開発を図った。この時代にあって蝦夷の降伏を祈願したのが半月に似た山「つきやま」と呼ばれた月山の神であった。新天地をめざす人々に安らぎの心を与え、平和と豊作を祈り人々の信仰の的となっていった事であろう。




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