その昔、内陸から六十里越街道を通り湯殿山へと、全国から白装束の行者たちがやってきた。
今は自動車が往き交う国道となったが、その歴史は、ひっそりとではあるが、確実に息づいていた。


  臥竜橋を渡ると白岩の集落に入る。ここは何と言っても三山行者によって栄たところ。ここで手形に「通り御判」を押してもらわなければならなく皆ここでいったん泊まった。一つの旅館で一晩200〜300人の客があり、集落内の宿屋からは泊まりきれない行者たちがあふれ出し、むしろにくるまって、軒下や道の脇に眠っていたという。臥竜橋から町筋はもう白装束の人また人。宿では行者たちの対応で大わらわ。1〜2時間の睡眠だけで、食事の支度をしていた。村内にある旅館の一つ加賀屋では、朝一汁一菜と納豆、昼お吸い物の豆腐汁一杯二銭(明治末)とおにぎりを縁台で出した。天保十三年(1842)の「当村方諸商人取調調書上帳」によると、白岩には72軒の商人がいた。夕食が終わった頃土産物を持った行商人や集落の男衆・女衆が各部屋を回り売り歩いたが、八畳間いっぱいに広げられた菓子類や硯、絵図、ふし草履、三山掛軸といった品物は、あっという間に売り切れた。


 こんな調子で白岩では、夏だけで有に一年分の収入があったので、後の半年は寝て暮らせた。かき入れ時が過ぎると集落にやって来る浄瑠璃や芝居を楽しみ、雪解けまで羽根をのばし、英気を養っていたのだろう。全国からやって来る行者たちは、白岩に技術も伝えてくれた。今も銘菓として残る「淡雪」や硯、もう少し先へ行った岩根沢の六浄とうふも、この頃の伝来のものだ。その後、大正13年の三山鉄道開通で白岩への足は次第に遠ざかっていった。



  寒河江市宮内にある追分石を通り「左湯殿山庄内」の方へ進んで行くと、今なお昔の六十里越街道の面影が残る熊野を通り海味へ。ここも白岩同様、湯殿山行者宿だった。その一つ朝日屋の前には六地蔵を中心にした数基の石碑がひっそり佇んでいる。腰曲付近から六十里越街道は川沿いの下道と段丘上の上道に分かれる。上道の海味川を越え、急な坂を上ると右手に、二人の衆議院議員を生んだ佐藤家がある。ここに「佐竹右京大夫宿」の木札が掲げられている。はっきりと文献に残ってはいないが、文政の頃秋田藩佐竹氏が参勤交代で六十里越街道を利用したときの宿所と伝えられる。やがて六十里街道は間沢に至り、分かれていた道はまたここで一つになる。間沢東泉寺には、白岩三十八カ村百姓一揆に関わる「寛永義民の墓」や、湯殿山行者の拝所として信仰を集めた「間沢薬師」がある。


臥龍橋 ( 白岩橋の移り変わり )   図 2
皆川義川筆湯殿山道中版画
「白岩橋」。現在で言う臥龍橋。
お行様の列が続く。
承応年間 ( 1652 ) 以前から明治22年までの約240年間この形式。流失などで14回も架け替えられた初代臥龍橋。 二代目臥龍橋。明治22年から昭和12年までこの形式。 昭和12年コンクリート造りアーチ型に架け替えられ、現在も健在の三代目、臥龍橋。

間沢薬師版画 図 6 白岩の宿   図 3 慈恩寺 図 1
皆川義川筆版画「間沢薬師」。間沢の東泉寺に「間沢薬師」の本尊が安置されているが、寛永義民の墓でも有名。 「白岩の宿」同皆川義川の版画 ( 右 ) と大正時代撮影の白岩の宿屋図案 ( 左 ) 。三山詣行者で賑やかだった当時が偲ばれる。 寒河江市にある慈恩寺。本堂をはじめ、文殊菩薩など、数々の仏像が重要文化財に指定されている。
六部塚付近旧道石仏 図 5 佐藤宗一氏宅 図 4
海味六部塚付近の旧道にある供養塔。この付近は寒河江川沿いに旧道が残っている。 海味の佐藤家に残る宿札。秋田藩佐竹氏が参勤交代で六十里越街道を通った時のもの。



制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所