江戸後期の庄内二郡名所一覧全図の一部
( 鶴岡市立郷土資料館蔵 )

戦国時代、六十里越街道は戦略の要路として利用され、戦乱の時代にはこの六十里越街道は軍兵と軍旗で埋まった。また、その頃の六十里越はすでに戦に馬が使われている事から、人馬の往来ができる道に整備されていた。戦国時代の天正十五年(1587)最上義光は前からの宿願であった庄内進攻を決意して、そのころ落城寸前にあった東禅寺城(酒田)を救うという名目で大軍を率いて六十里越を越えて庄内に殺到。松根、黒川方面に陣をひいていた大宝寺氏を打ち破り、尾浦城(大山)も落し、大宝寺義興は自害。約四百年も続いた大宝寺氏はついに亡び庄内は最上氏の手に入った。


  しかし、翌十六年八月になると越後の本庄繁長・義勝父子は上杉景勝の支援を得て大軍を率いて庄内に進攻してきた。驚いた義光は草刈虎之肋をさし向けるが、庄内・最上の連合軍は十五里ケ原にて奮戦のあげく完敗。草刈虎之肋は討死した。急を聞いて最上義光は大軍を率いて六十里越を急いだが間に合わなかった。最上勢は2500人あまりが討死したと言われる。
こうして本庄繁長は庄内一円を征服した。この戦いで 最上方についた楯生や地侍などの残党狩りは翌年まで続けられ、最上衆だけでなくその在所のものまで老若男女一人残らず惨殺されたところもあった。(山形県史)

  慶長五年(1600)開ケ原の決戦によって戦国動乱の世も終わりを告げ翌六年から庄内は再び最上義光の領土とするところとなり、戦乱に開けた六十里越街道も平和を取り戻した。



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