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歴史 〜 鳴子ダムと水のお話 〜

涌谷町と鳴子ダム

鳴子ダムが造られる以前と完成してから現在までの涌谷町はどのように変わりましたか?

ダムが出来る前までは・・・

昭和25年に災害が起きて、江合川の右岸が大きな被害を受け、上流の方が50メートル・南の方100メートル3ヵ所右岸が決壊しました。左岸がおおいっぱ堤防っていうちょうどあちら側のおちあうあたり100メートル決壊したのかな?

その涌谷町内を決壊したためにですね。まず災害ちゅうのは、すごかったですけれども、災害復旧に5〜6年ぐらいかかったのかな?

ほんとにね当時の町は町のために、まず災害には苦労されたようです。それで私の記憶ではですね鳴子ダムというのは、私は、涌谷でも小牛田駅裏に一番近いとこに住んでるもんで、涌谷の町よりもさっき話した右岸の横土卆線ってあるんですけれど涌谷に持ってくる用水路、出水の主管、そこが決壊のためにね私の部落も道路にこんな水があったんですよ。

それで、これでは涌谷は雨でまた建設省で災害堤防重視しても今後まだ水が決壊するおそれがあるからということでもう陳情しかないという状況にダムをつくる状況に調整、水利調整をはかろうということで、まず建設省に足を運んだようです。

町の方々は、ずいぶん陳情なさって、それでダムが着工されて、昭和32年に鳴子ダムが完成したのかなあと。ダムができるまでは、涌谷は自然用水だからねえ、上から順序にじゃねえと水来ねえがらね。鳴子ダムができたおかげでね農業用水もうんと楽になったんだ。ダムの完成後は、災害だけじゃなくて用水までうまく行ってます。

ダムができてからは?

昭和32年にダムができてから堤防の決壊なんてないから・・・そして、防災ばかりでなく、農業の管理するためにも農業用水の利用が役立ってる。水管理ができているのは、そのおかげだね。田んぼの管理が楽になったのは、ダムの完成に合わせて言えることだね。

今の若い人たちは、誰もそうだと思ってない。鳴子ダムができたおかげでね、農業用水もうんと楽になったんだ。ダムの完成後は、災害だけじゃなくて用水までうまく行ってます。

農地を管理するための農業排水の利用にもダム。今は、利水とか一生懸命ですね。そして今は、改良区。役場で改良区なんかあるからね。山とか水災害ばかりでなくて、その後の用地の管理にも役立ったんだよ。

鳴子ダムの恩恵をね、一番受けていると思っているのは、私たち涌谷なんですよ。ダムのおかげで、ひとつは田んぼなどの農業用水が利用できるようになったということ。そして一番困る水害がなくなりました。

涌谷には、昭和32年に鳴子ダムができてから初めて、ちゃんと上流の方の水が来るようになったんです。桁違いに水の利用が改善された。4月末にダムから水が放流される。

この水は、「ゆきしろ」といって雪解け後の水で色も違う。そして、この「ゆきしろ」は稲の成長にものすごく栄養がある。「ゆきしろ」が江合川を流れ、この辺りでも全部田んぼに引かれる。これ実は大変なことなんです。農業には一番大事な尊い水が利用されてるんですから・・・

春に水がないから田植えができないといっていた人が田植えできるようになって、田んぼの収穫量が増えました。昔この辺は、5俵・6俵(収穫ができれば)と考えていたのです。今は、8俵も採れる、箟岳では10俵も採れる。だから、経済効果といったらものすごいものがある。

天気のいい日に上流の鳴子から涌谷まで水が来るには、どのくらい時間がかかると思いますか?実際に測った方がいらっしゃって、鳴子の橋から米ぬかに浮かしたにんじんを流した。その経過を涌谷にたどり着くまでの三ヵ所で確認して、そのたびに米ぬかを注いで流す、注いで注いで流すを繰り返してたそうです。

その結果、八時間かかるということがわかったと聞いています。今のわたしたちの生活は、農業用水・生活用水などなにからかにから水の恩恵を受けていますが、これは山から海の果てまで繋がっていています。海だけがあってもだめなんです。山が湿らないといい魚は採れないんですから。