北上川学習交流館「あいぽーと」
 
サイトマップ
文字の拡大
トップページ
あいぽーとクラブ
体験プログラム
北上川情報
施設案内
リンク集
北上川の歴史 舟運の歴史
 
江戸時代

伊達政宗による新田開発と舟運路の整備 
 北上川の下流部は、伊達政宗の領国経営の構想に基づいて、新田開発と舟運路の整備を主たる目的として改修されます。
 まず、政宗の家臣である白石宗直は登米城主となり、城下町づくりと新田開発のため、慶長15年(1610)中田町水越地点を締切り、北上川を二股川の河道に導きます。
 その後、産米を石巻に集め、江戸に廻米し藩財政の基盤を確立するため、政宗は川村孫兵衛に命じて河口石巻を中心とする内陸水運網の整備にあたらせます。孫兵衛は、現在の定川筋を流れていた江合川を短台地峡を開削して迫川と合流させ(元和2年、1616)、次いで神取山地峡を開削して北上川を迂回させ(寛永3年、1626)、北上川・迫川・江合川の三川合流という大工事を仕上げます。

北上川下流部の河道の変還
拡大図 拡大図 原始河川 拡大図 江戸時代 明治以降

南部藩による改修
 盛岡に居城を移した南部藩は、城下町づくりに着手しましたが、築城地点は北上、雫石、中津の3川合流点のあたりで、花崗岩台地であり、建設は困難を極めたと考えられています。築城後も北上川は、盛岡城の西南隅を激しく洗うように流れており、城壁や石垣が毎年のように崩壊していました。そこで南部藩は、寛文13年(1673)、北上川の河道を付替える新川開削工事に着手し、2年の歳月をかけて現在の流れのように改修しました。また南部藩は、花巻城下においても北上川の付替え工事を行っています。

盛岡地区の河道の変遷

舟運路の完成と賑わい
 伊達政宗の構想により石巻から盛岡までの舟運路が完成します。そして要所要所に舟運の基地である河岸が設けられます。これらの河岸の多くは、為登米(のぼせまい)と称する江戸への年貢米積み出し基地であり、それぞれの河岸近くには御蔵と呼ばれる貯蔵庫が設けられました。石巻から黒沢尻(現北上市)まで(148km)はひらた舟(350〜450俵積)が上り10日下り3日で運航し、黒沢尻から盛岡まで(52km)はおぐり舟(100〜120俵積)が上り4日下り半日で運航していました。こうして江戸へ運ばれた米は、その最盛期に江戸米の2/3を占めたといわれています。

明治時代

新旧の北上川の誕生
 河川は、鉄道の整備が行われるまで、輸送路としての利用が優先されました。北上川の直轄工事は明治13年に始まりますが、石巻河口から盛岡までの区間の航路改良を主眼とした低水工事でした。(明治35年まで)
 洪水防御を目的とした本格的な改修工事としては、明治44年に着手された下流部(宮城県内)の第一期北上川改修工事が始まりです。北上川第一期改修工事は、明治43年洪水を契機に、柳津における計画高水流量を20万立方尺(5,570立方メートル/s)と定め、本川として新たに柳津〜飯野川間に河道を開削して17万立方尺(4,730立方メートル/s)を追波川を通じて追波湾に流下させ、平常時の流水を旧北上川へ流下させるため、新北上川に飯野川可動堰を、分派点に鴇波(ときなみ)、脇谷(わきや)両洗堰を設置し、洪水の一部3万立方尺(840立方メートル/s)は旧北上川へ分流させることとしました。この計画に基づく事業は明治44年から昭和9年までの24ヶ年継続事業として実施され、新旧2つの北上川が誕生し、現在の河道の骨格ができあがりました。

当初は舟運を目的とした改修
 北上川の当初の改修工事は舟運が目的でした。このころ、北上川は従来の和船による小型船の運航から、新造の洋式汽船が石巻河口から狐禅寺間を航行するようになり、船会社も設立されて、客や荷物の争奪が起こるような状況でした。したがって、岩手県側も航路を更に広げて、狐禅寺から上流の盛岡まで輸送力を強化することが求められたのです。改修の効果はありましたが、明治23年(1890)の鉄道の開通により、北上川の舟運は徐々に衰退していきました。

洋式汽船(岩手丸)
洋式汽船(岩手丸)
北上川学習交流館「あいぽーと」
〒029-0131  岩手県一関市狐禅寺字石ノ瀬155-81
TEL:0191(26)0077  FAX:0191(26)0078
舟運の歴史 北上川の水害 北上川の治水