元禄七年、中山町長崎地区から白鷹町荒砥地区までの航路が新設されるまでは、現在の長崎地区付近が最上川舟運の終点でした。その舟着き場には老松があって、そこが船頭たちの休憩場所だったといわれています。酒田から船で運ばれてきた塩や干魚などの物資はここで降ろされ、人の足によって、置賜地方へと運ばれていました。
当時は、うまく連絡がとれない事があり、船頭たちは舟に寝泊りしながら、何日も何日も物資の運ぶ人を待たなければなりませんでした。その退屈しのぎのひとつとして発生したのが芋煮会です。舟着場のすぐ近くには里芋の名産地である小塩という集落があるので、そこから里芋を買い求め、舟に積んできた棒だらなどの干物といっしょに煮て、飲み食いしながら待ち時間を過ごしたのです。その時、そばにあった松の技に縄をつるして芋煮をしたので、この松が「鍋掛松」と呼ばれるようになったと言われ、これが中山町長崎地方に伝えられている芋煮会のはじまりと言われています。
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