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額縁(本覚寺庫裏)
この扁額は道光10年(1839年)に書かれました。当時日本は鎖国をしており、幕府は諸外国の情報を、欧米についてはオランダ人による『阿蘭陀風説書』により事情を知り、清国については『華夷変態』によって清国人より情報を得ていました。
 清国人は長崎の「唐人屋敷」に居住しており、本覚寺左右の松の名声は遠く長崎にも及び、清国の高官「龍陳春」も遙々東北の名刹儀徳山本覚寺を訪れ、名木を絶賛して『臥龍松園』の書を残しました。


八大龍王神社
 この写真は八大龍王神社の社殿です。元亀三年(1570年)当地方は大干ばつで、その当時「最上川の碁点の淵に竜宮があり、そこに住む竜神に牛を生贄にすれば雨がふる」との予言があり、村人達が牛を供え雨乞いをしたとの逸話を伝えています。いまでも社殿から最上川の湖底へ真一文字に結ぶ石のきざはしが残っています。


昇竜の舞(八大龍王神社本殿)
この写真は、八大龍王神社春の大祭での最上川龍獅子会による奉納舞いの様子です。
同会では命の源である水に感謝し、五穀農穣と家内安全を願って龍獅子舞いのために特製した、勇壮な雅び太鼓の響きに合わせて優雅に舞い踊ります。その他、犠牲となった牛の菩提を弔うために、儀徳山本覚寺の大施餓鬼会(8月20日)の法要のあと、牛の墓前で舞を奉納します。2003年は、東京浅草の金龍山浅草寺に念願の舞いを奉納しました。


内陣での読経(八大龍王神社本殿)
 八大龍王神社春の大祭(旧3月3日)に本殿内陣において、河島地区の氏子が多数参加し、神事が執り行われます。神主により、祝詞が奉ぜられ、その後に勇壮な竜神太鼓が内陣に響き渡ります。
 神事の後の直会では、地区民らが持ち寄ったつきたての餅や菓子が参拝者に振るまわれ、境内では満開の桜の下、最上川龍獅子会による優雅な昇竜の舞いが奉納されます。


金龍と白龍の昇竜の舞
 犠徳山本覚寺(村山市楯岡)の伝説によると、元亀三年(1570)、村山地方は大干ばつに見舞われ、農民達は非常に困窮していました。すると白髪の予言者が現れ、「最上川の五天(碁点)の淵に竜宮があり、そこにすむ竜神に生きた牛を供えれば必ず雨が降る」と言いました。農民達は、若者が連れていた雄牛を奪い、五天の淵に沈めてしまいました。するとたちまち白竜が昇竜し、豪雨が三日三晩降り続きました。農民は干ばつの危機を脱することができましたが後難を恐れ、明銭五貫目を持ち主に贈り礼を述べました。
 ところが若者はこれを受け取らず、行脚していた良穏上人がこれを聞き、「牛とはいえども仏性はある。早く三宝に帰依し懺悔しなさい」とその非を諭し、七日七夜念仏をあげました。村人達も皆合掌し、念仏を唱え牛の魂に捧げたということです。これが現在の犠徳山本覚寺の由来で、境内には牛の墓も現存しています。
 この伝説に因み、村山市に本部を置く最上川龍獅子会では、村山市クアハウス碁点の最上川対岸にある八大龍王神社の春の大祭(旧3月3日)に、境内において舞の匠による金龍と白龍の昇竜の舞を奉納します。


本覚寺境内にある臥龍型の赤松
 本覚寺境内の前庭には、山形県の天然記念物に指定されている臥龍型の赤松の名木があります。樹齢400年を数え、江戸時代に活躍した鈴木左右が寄進し、「左右の松」との名がついたといわれます。通常赤松は直幹ですが、左右の松は、幹があたかも左右に臥してわだかまる龍の如く見事な枝振りを見せています。江戸時代より名声を博し、中国清朝の高官も本覚寺を訪れ、「臥龍松園」の墨跡を残しています。

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