HOME > 鳴子ダムを学ぶ! > 歴史 > 鳴子ダムと水のお話 > 涌谷町の歴史

歴史 〜 鳴子ダムと水のお話 〜

涌谷町の歴史

太古から続く歴史の舞台と水害の歴史

涌谷町の歴史は大変古く、奈良時代までさかのぼります。

聖武天皇が即位した724年はアジアではシルクロード交易による各地との活発な交流の一方、朝鮮半島の新羅が唐と一緒に力をつけ、東アジア各国間の緊張が高まった時代でもあり、国内外が混乱政乱の時代でした。聖武天皇は政乱に応じて何度都を移しましたが、地震やききん、病気の流行により、世の中は大変不安定となっていました。

そこで、聖武天皇は平和を祈願し、「東大寺の大仏様」建立を目指しました。しかし、当時は金はすべて輸入であり、大仏建立に際しての膨大な金を手に入れることは大変なものでした。749年当時の涌谷地域をおさめるひとが日本で初めての金を涌谷から産出し、砂金900両(13kg)を献上しました。

天皇は大いに喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改めたほどです。また、この産金に報い、当時の宮城県の租税は三年間免除、涌谷地域周辺も永久に免除されました。

相次ぐ水害の歴史

一方でこうした華やかの歴史舞台の一方で四方を河川に囲まれた涌谷町は水害との戦いの歴史でもありました。 水田地帯は江合川と鳴瀬川に挟まれ、さらにはその間を出来川が流れています。出来川は小さな川ですが、大雨が降ると上流の大崎地方の悪水を集め、さらには江合川の水が逆流し、水害を繰り返していました。 宮城県の農業は昔から米作が主体で、中世から新田開発を中心に進められてきましたが、藩政時代の開発は低湿地が多く、どうしても災害に弱い地域となってしまうのでした。 水害を防ぐための河川整備は明治末期〜大正時代に入りようやく本格化してきました。明治43年に大水害があり、これを契機に涌谷周辺の河川は大きく姿を変えました。江合川と鳴瀬川を合流させた新江合川の着工や水門設置などが数多く進められたのです。 こうした事業を進め、次いで昭和15年宮城県土木部が河川統制事業として鳴子ダムを作ることを計画しましたのです。

もらい水

水による災害が相次ぐ一方で涌谷町では慢性的な稲作用水不足でもありました。涌谷町の用水の多くは大小のため池を主とし、河川の水も江合川の末端なので田植えには苦しんできたのです。毎年田植えの時期になると遠くは岩出山までの上流に「もらい水」に出かけていたのです。こうした「もらい水」は藩政時代から続き、日照りが続くと農民は窮地に立たされました。また冷害の多くは水不足が大きな原因でもあったのです。

そのため、涌谷町の人々は上流に立派な貯水池を設置し、安定した水の供給がされることが悲願だったのです。

昭和10年に当時の町長が江合川筋の関係町村長と一緒に、県にダム設置の誓願を行いました。しかしながら、容易に話は進みませんでした。

幸か不幸か昭和15年戦時下の食料農産物の生産を確保するため、食料増産の為の農業水利の調整が国家の使命となったのです。それを受け、昭和16年宮城県江合川の河川統制事業として鳴子ダムを作ることを計画しました。ただし、戦争が激化し、計画は中断せざるを得なくなりました。

戦後の相次ぐ大水害

戦後の混乱からも落ち着くまもなく昭和22年から25年にかけて4年連続で大きな水害が相次ぎました。

  • 昭和22年カスリン台風による洪水
  • 昭和23年アイオン台風による洪水
  • 昭和24年キティ台風による暴風雨
  • 昭和25年熱帯性低気圧による大洪水

こうした未曾有の被害を受け、県で計画した鳴子ダムの計画は国に引き継がれ、国直轄事業となりました。しかしながら、戦後間もないため予算も資材も乏しく、ダムの計画は大幅に見直されました。早期の完成を目指し、全国から優秀な技術者が集まり、当時の最先端の技術も惜しみなく使われました。また、鳴子ダムは日本初の日本人だけで手がけたアーチダムでもあります。まさに日本人の英知の集合といっても過言ではありません。

多くの関係者の多大な努力で昭和32年ついに悲願の鳴子ダムは完成したのです。