川の歴史 北上川ってどんな川?(気象から見る北上川)
   
北上川の名前の由来
この地方は日本書記にでてくる『武内宿禰、東国より環りまいてきて奏して言さく、「東の夷の中に日高見国あり…』(景行天皇27年2月条)の日高見国ではないか、といわれています。日高見国がどこにあるかは、はっきりとしていませんが、朝廷の権力のとどかない辺境の地をさしたものと考えられています。
その日高見国を流れる川「日高見国の母なる川」の意味が、日高見川(ヒタカミ川)→キタカミ川、やがて北上川とあて字をするようになったといわれています。
(参考資料)
北上川百十年史-国土交通省東北地方建設局
 
黄金きらめく平泉文化
中尊寺・金色堂

毛越寺・庭園
中尊寺・金色堂に代表される平泉の文化は、11世紀末から12世紀にかけて約100年間、藤原清衡、基衡、秀衡と続き、4代泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで続きました。平泉は北上川の水の脅威から守るため、周囲7kmにおよぶ堤防が築かれていました。また、北上川による舟運も盛んで、遠く東アジアとの交易も行われていたといいます。
■盛岡の昔と今
(北上川・雫石川・中津川合流地点)
江戸時代後期(安政年間)
盛岡城下古絵図(盛岡市中央公民館所蔵)
現在の盛岡市
   


(参考資料)
北上川-岩手日報社

舟運の歴史─舟による北上川の利用
北上川を利用した舟の交流は平泉文化に見られるように、古くから行われていましたが、最もさかんに行われたのは江戸時代です。北上川流域でとれた米は江戸で売られ、各藩の財政を支えました。黒沢尻(現在の北上市)には、南部藩の御蔵奉行がおかれ、上流を航行する小操舟から下流を航行するひらた舟に荷物を積替える拠点となっていました。
明治になると、船会社ができ、一関と石巻の間を蒸気船が航行し、北上川流域は大きな賑わいを見せました。宮沢賢治も蒸気船岩手丸で船旅を楽しんだといいます。
(参考資料)北上川の水運・北上市立博物館


ひらた舟(北上川・展勝地)


蒸気船(岩手丸)
 
川に鮭が戻ってきた! <清流化対策>
北上川は昔からきれいな水が流れ、豊富な水量が人々の生活をうるおしてきました。大正時代に入ると支川赤川の上流に松尾鉱山ができ、そこから流出する鉱毒水で赤川は酸性水に汚染され、その量が多くなるにつれ、北上川にも汚染が広がりました。昭和20年代後半からは魚が生息できないほどになり、北上川は「死の川」となり人々は遠ざかりました。
その後、県や国が水質を改善する様々な事業を行い、北上川の水質は徐々に改善されてきました。昭和49年秋には盛岡市内を流れる中津川で鮭のそ上が確認されました。
(参考資料)北上川昔と今-岩手の土木史研究会・国土交通省岩手河川国道事務所
 

汚染された松川と北上川の合流点
旧松尾鉱山新中和処理施設
昭和56年に完成したこの施設は、鉄バクテリアで酸化させた鉱毒水を炭酸カルシウムで中和する新方式を採用しました。以後、川の水質は急速に改善されました。さらに、従来の処理で問題となっていた四十四田ダムへの生成沈殿物の流入も防ぐことができました。
(参考資料)北上川昔と今-岩手の土木史研究会・国土交通省岩手河川国道事務所
   
ものしりマメ知識 ●北上川の源泉「弓弭の泉」に伝わる伝説 ●小操舟とひらた()舟とは?
 

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