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しゃかいの部屋 |
相馬中村藩の成立
相馬中村藩の発展
相馬氏は慶長16年に中村城に移り、3代相馬忠胤(ただたね)の頃までには、武家屋敷・町屋敷を区分するなど本格的な城下町の整備をしました。絵図は元禄15年(1702)頃のものと見られています。
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![]() ▲中村城下絵図 |
![]() ▲現在の相馬市 |
相馬市
慶長16年、相馬利胤(としたね)が六万石の大名になり現在の相馬市に中村城を築きました。中村城は、その後幕末まで相馬氏の居城となり相馬中村藩の中心として発展していきました。
中村城は、相馬領3郡の中では北端に近い位置にあります。城の改修に際して宇多川の流れを南に移し、流域の西側に武家屋敷が築かれ、東側には町屋敷が置かれるなど、城下町としての機能が整えられました。参勤交代の時代になると街道は整備され、多くの旅人で賑わいました。相馬市は、明治維新まで改易されなかったため、比較的民政は安定し、野馬追など、独自の武家文化が守られました。
![]() ▲馬陵(ばりょう)公園 |
![]() ▲相馬駒焼 |
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相馬中村藩財政を潤す国産物〜塩街道〜
19世紀前半には、年間2万から5万俵の塩の生産があり、相馬中村藩の財政上重要な産物でした。
相馬塩は、馬の背に積み阿武隈山地を越える西街道を経て二本松城下へ、さらに会津城下まで運ばれました。岩城塩とともに太平洋から入る「東入り塩」と呼ばれました。