【特集】
水沢公園を設計した蓑虫山人の生涯



 水沢市民をはじめ、多くの人に親しまれている水沢公園。この公園を設計したのは、「蓑虫山人」と呼ばれた岐阜県出身の旅絵師でした。
蓑虫山人はどのような人だったのか? また水沢公園にはどのような歴史が秘められているのか、その物語を追ってみました。


漂泊の放浪画人 蓑虫山人

 蓑虫山人は、天保7(1836)年、美濃国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれました。本名は、土岐源吾と言います。8歳のとき源吾は、竹生島の某寺の小僧となりますが、嘉永2(1849)年に生母のナカが亡くなり、この年の秋、郷里を離れ放浪の旅へと出ます。まだ、14歳の少年でした。48年にも及ぶ諸国放浪の旅の始まりです。
 山人は、生活用具一式を笈(修験者が経文や仏具を入れて背負った木箱。今でいうリュックサックのようなもの)に入れ、南は九州から北は青森まで、全国を旅して各地にその足跡を残しました。「蓑虫山人」という名は、彼が21歳の頃用いるようになったとされ、蓑虫は「美濃」にひっかけたのではないかと、考えられています。また、山人はこの他にも、「三府七十六庵主」や「六十六庵主」などと名乗っていたと言われています。
 その風貌、また奔放な生き方は、一般の人々にはとても奇異に映ったらしく、彼のことを記した文献には、「奇人」との記述が随所に見られます。


水沢公園花見風景(蓑虫山人絵日記より)明治25年頃(佐藤英男氏提供)

水沢公園の設計を依頼される

 明治11(1878)年、43歳の山人は、秋田県東成瀬村手倉から仙北街道をたどり下嵐江を経て、水沢へとやってきます。そのころ戸長小岩昌、辻山義直らは水沢公園の開設に際し、設計を山人に依頼。山人は、自ら土石を運び樹木を植え、水沢公園の造園に尽力したと言われています。 

 その後、山人はまた旅の人となり東北各地を放浪しますが、明治24(1891)年に再び岩手に入ります。そして、3年ほど水沢近辺で過ごし、小山の佐藤信二郎宅の庭をつくっています。このころ、絵日記に「水沢公園花見風景」の絵を記しています。  明治29(1896)年、61歳となった山人は、東北の長旅を終え名古屋へ戻り、明治33(1900)年、65歳の生涯を閉じました。


山人が背負っていた笈(佐藤英男氏提供)



七重の塔
公園創設当初、有志によって寄贈されたもので、もとは盛岡市の寺院にあったとされています。日光の紫石を使った七重の塔は珍しく、全国で2〜3基ほどしかないと言われています。

太宰先生之碑
太宰氏は漢学、詩文にすぐれ、水沢市の教職にあたり、子弟教育に尽力しました。彼の門弟たちによって、大正3(1914)に碑が建立されました。

水沢公園史碑
明治の俳人正岡子規(1867-1902)は、長期にわたり東北を旅した「果 て知らずの記」の最終地として、水沢公園に立ち寄りました。そして、水沢市街を眺め(当時、小高い丘だった公園からは市街が一望できた)、「背に吹くや五十四郡の秋の風」という句を詠みました。

弔魂碑
戊辰戦争の際、仙台藩の一門である水沢藩も白河の役に出陣しましたが、石切山などで敗れ、慶応4年6月12日に星隊長ら17人の死者を出しました。留守家26代邦寧(くにやす)、27代基治(もとはる)は深く悼み、28代景福(かげやす)が、その志を継ぎ明治27(1894)年にこの碑が建てられました。

松平氏の墓
筑前の太守52万石、黒田光之候の3女悦子は、東北の陪臣1万余石の小大名宗景に想いを寄せましたが、格式の差から正式な結婚ができず、ある人の橋わたしにより松平忠久の養女となって留守家に輿入れしました。しかし、悦子は24歳の若さで江戸で没します。宗景は「せめて江戸への道の見える丘に葬ってほしい」と遺言を残し26歳の生涯を閉じます。その遺志により江戸へ至る街道のあったこの地に埋葬されました。

高野長英の碑
水沢公園の歴史年表が刻まれた碑で、斎藤實像の前にあります。

国体記念碑
昭和45(1970)年の岩手国体において、ボクシング総合優勝、弓道総合優勝、馬術総合3位 という輝かしい功績を讃えた碑が建立されました。

松尾芭蕉の碑
元禄7(1694)6月に出された句集「炭俵(すみだわら)」の中の一句「傘でおし分見たる柳かな」を刻んだ句碑で、安永4(1775)夏草庵と二四庵社中が協力して建てました。もともと柳町付近にあったものを公園に移したと、説明文には記されています。

水沢公園と水沢競馬
水沢が生んだ幕末の蘭学者として名高い高野長英1804(文化元)年〜1850(嘉永3)年の碑で、1901(明治34)年に建てられました。高野長英記念館入口にあります。

蓑虫山人が造った水沢公園のその後

 蓑虫山人によって、現在の原型がつくられた水沢公園は、年を経る毎に整備・拡張されていきました。
 現在の公園面積は、11万3000平方メートルにもなり、野球場、陸上トラック、体育館、テニスコートなどのスポーツ施設のほか、高野長英記念館もあります。また駒ヶ岳から奉還した駒形神社も隣接し、一年を通 して多くの人々が訪れる憩いの場となっています。樹齢およそ350年の古木ヒガン桜群は、県の天然記念物に指定され、桜の下では毎年花見が盛大に繰り広げられます。

水沢公園を散策しよう

 現在の水沢公園には、様々な記念碑や句碑・歌碑が建立されています。こうした記念碑を一つひとつ丹念に調べていくと、水沢公園の歴史の深さやいかに多くの人々に親しまれてきたかをうかがい知ることができます。
 春は桜、夏はスポーツ、秋は紅葉、そして冬はひっそりと落ち着いたたたずまいで、私たちを楽しませてくれる水沢公園。蓑虫山人を偲びながら散策すると、またひと味違った水沢公園の姿が見えてくるかもしれません。


高野長英記念館


  【水沢公園年表】  
  元和元(1615)年 羽黒派修験者威光院円識 この地に庵を建てる  
  延宝4(1676)年 先妣松平氏(留守宗景の妻悦子)没し この地に葬る  
  貞享3(1686)年 大安寺7世普山和尚 高峯軒を建て悦子の菩提を弔う  
  明和3(1766)年 塩竈神社、愛宕社が岡に遷座  
  天明6(1786)年 菅江真澄 この地を訪れ花見の宴を開く  
  安政6(1859)年 塩竈神社、愛宕社が水沢の大火で焼失  
  明治10(1877)年 戸長小岩昌、辻山義直等公園開設を提唱  
  明治11(1878)年 蓑虫山人 後年の設計造園にあたる
愛宕神社 建立
 
  明治22(1889)年 瑞皐八景碑 建立  
  明治26(1893)年 正岡子規 この地を訪れ俳句を詠む(昭和24年句碑建立)  
  明治33(1900)年 公園拡張、池、築山等をつくる  
  明治34(1901)年 円形馬場に拡張整備
高野長英碑 建立
 
  明治44(1911)年 後藤新平銅像 建立 (昭和19年戦時供出 昭和46年ボーイスカウト像建立)  
  昭和13(1938)年 斎藤實銅像建立(昭和19年戦時供出 昭和38年復元)  
  昭和38(1963)年 菊池知勇歌碑 建立  
  昭和39(1964)年 市民体育文化会館 開館  
  昭和41(1966)年 都市公園整備事業はじまる(昭和53年完了)
ヒガン系桜群 岩手県天然記念物に指定
 
  昭和46(1971)年 テニスコート 拡張整備  
  昭和48(1973)年 野球場 拡張整備  
  昭和50(1975)年 陸上競技場 拡張整備  
  昭和53(1978)年 公園開園100周年事業実施
後藤新平銅像(南側)建立
 
  平成10(1998)年 公園開園120周年記念事業実施  
  平成12(2000)年 3月 水沢公園開園120周年を記念し建立(水沢市)  
   

水沢公園と水沢競馬
 文治6(1190)年、奥州の留守職だった藤原家景は、塩釜神社を深く崇拝し水沢に社殿を建立し神事を執り行いました。7月10日の祭日には、流鏑馬の式と馬術の上達を目的として、競技並びに走争等を行いました。これが水沢競馬の起こりとされています。この祭典は、明治時代には駒形神社の「花競馬」という形で引き継がれ、明治34(1901)年、競馬法の改正に伴い、水沢公園の南側に円形の競馬場(1周約500m)が設けられ、胆沢郡の産馬組合が主催して、春秋二回競馬が開催されるようになりました。水沢競馬は全国にその名が知れ渡るほど年々盛大になっていきましたが、太平洋戦争によって一時中断。再開されたのは、終戦直後の昭和22年のことでした。
 水沢競馬場は、駒形神社周辺を都市公園として整備するため、昭和39年3月、北上川のほとり「杉ノ堂」に移転されました。