[ 特集号No.1]

 

 広大な胆沢平野の水田、それは先人の知恵と汗と、苦労の末に作られた風景でした。より上流から水を引くアイデアを思いつき、正確に水路を作る技術を編み出し、みんなの力仕事で大地を掘る……そうして原野を農地に変えてきた、中世から続く胆沢の水文化を見てみましょう。それはいま建設が進められている胆沢ダムのダムサイト地点で発見された旧穴山堰に始まり、二大用水、円筒分水工、石淵ダム、胆沢ダムへと続く、道のりの長い取り組みです。

山をつらぬくトンネルの水路
旧穴山堰


旧穴山堰
旧穴山堰保全委員会
委員長 渡邉  清さん

 私たちは穴山堰を終戦後まで使っていました。田仕事が始まる春、終わった後の秋に堰を清掃する管理などは、集落で行ったものです。
 「番水」も固い約束で時間を定めて、火を焚いて夜通し番をしました。我が家の米作りは、まったくもって穴山堰が頼りだったといっても過言ではありません。
 ですから、近年見つかったトンネル「宮坂穴」に初めて調査で入った時は、たいへんな感激でした。ダム工事に伴って何か発見があった場合は、工事事務所からその都度連絡があります。謎とロマンは尽きませんが、そうした謎が少しでも明らかになっていけばいいですね。




 胆沢平野の水文化の原点といわれる、最も古い用水堰です。今から500年前に掘られたといわれますが、さらに古いとの言い伝えもあり、明らかにはされていません。胆沢川の馬留橋下流から水を取り入れ、奥州市前沢区白鳥地区まで18キロメートル。そのうち、約3キロメートルが、山の下を通る何本かのトンネル水路です。〈ノミ〉などの道具と人の力だけで、しかも目標のない土の下を、正しく掘り進む技術の高さにびっくりしてしまいます。トンネルは幅1.2メートル、高さ50センチ〜1.5メートル。身をかがめ、小さな火の明かりをたよりにコツコツと掘りつづけたのでしょう。水への強い願いが感じられる旧穴山堰。その一部はいまの穴山堰の一部として、利用され続けています。


現在も胆沢の大地を潤す大水路
茂井羅堰

 胆沢川に沿って、西から東へのびている茂井羅堰。今から400数十年の昔、元亀年間に拓かれたと伝えられます。この堰の開削を指導した人物として北郷茂井羅(きたごうしげいら)という女性の名が伝わっていますが、しかし名前のほかに、どのような人物かを示す文書などは見つかっていません。堰が開かれた年代もさらに古いとする説もあります。
 他の堰に比べて、高低差が小さく、また作りも簡単で、トンネルにした旧穴山堰よりも工事はしやすかったと思われます。次に紹介する寿安堰と並ぶ二大水路として、改修が重ねられ、いまも胆沢平野をうるおしています。


茂井羅堰

キリシタンが美しい田を残した
寿庵堰

 茂井羅堰と並んで胆沢平野をうるおす二大水路のひとつ、寿安堰。工事を命じ、堰の名前にもなっている後藤寿安は、水沢福原の領主で、キリスト教を信仰するキリシタンでした。
 約400年前の江戸時代、工事は水を取り入れる胆沢川上流の金入道から始まりました。しかし約5年をかけて土橋周辺まで1.7キロメートルを掘ったところで、寿安は逃亡せざるをえなくなります。寿安が仕える仙台藩主・伊達政宗が、キリスト教を禁じたためでした。
 工事が止まった翌年、胆沢地方はまったく雨が降らずに大干ばつに見舞われます。ひび割れた水田を見かねて、再び水路の工事に立ち上がったのが、千田左馬親子と遠藤大学という、どちらもキリシタンでした。
 多くの困難を乗り越え、堰は13年の年月をかけて完成したのです。いまも胆沢区小山、前沢区に広がる美しい田んぼは、寿安堰がうるおしている風景なのです。


寿安堰


水に立ち向かう 五大ダム計画
石淵ダム

 北上川の流域は、長く洪水被害や水不足に悩まされ続けてきました。そうした水にかかわる苦労と危険を解消するため、昭和16年(1941)に策定されたプロジェクトが「北上川上流五大ダム計画」です。北上川本流に四十四田ダム、雫石川に御所ダム、猿ケ石川に田瀬ダム、和賀川に湯田ダム、そして胆沢川には石淵ダムが計画されました。
 計画は資金や物資の不足、また戦争が始まったこともあって一時ストップしますが、昭和21年(1946)に再開して、石淵ダムは着工されました。五大ダムには洪水調節のみならず、田畑をうるおす潅漑、発電など、北上川流域の総合的な開発を目指して進められることになったのです。当時、アメリカのTVA(テネシー川流域開発計画)が成功した例にあやかり、KVA事業と名づけられました。
 そして昭和28年、五大ダムの最初のダムとして石淵ダムは完成しました。日本で初めての、岩石を積み水圧を支えるロックフィル方式ダムです。
 ダムの完成後、水の恵みによって農業生産をはじめ、地域経済が発展しました。しかし豊かになった一方で、新たな水不足や電力の不足が心配されるようになりました。そのために開発計画は練り直され、北上川総合開発の大切な一環として、胆沢ダムの建設が進められているのです。


二大用水に水を平等に分ける
円筒分水工

 石淵ダムが完成した後も、寿安堰と茂井羅堰の二大用水では、水の分け方をめぐって争いが絶えませんでした。胆沢川の水の絶対量が足りなかったことと、二大用水の取り入れ口が近かったためです。そこで昭和34年、水を平等に分けるための円筒分水工が完成しました。人の手で配分の量を動かすことなく、円の角度の大きさによって水が分けられる理想的な手法です。争いをせず、平和的な水を共同利用するシンボルといえるでしょう。
 30年以上使われ続けて老朽化が目立ってきた平成7年度、全面的に改修されました。新しい円筒分水工はひと回り大きくなり、まわりは公園「徳水園」として整備されて一般に開放されています。心地よい木立が繁る一角からは、円筒分水工の全体が見下ろせます。一番の見頃は、田植えが始まる初夏。ごうごうと音を上げて、焼石連峰の雪どけ水があふれ、流れています。


胆沢平野土地改良区
理事長 佐々木 宏さん

 胆沢平野で農業用水は、常に不足し、水争いは絶えませんでした。それゆえ昭和28年に完成した石淵ダムには大きな期待を寄せました。胆沢平野小唄の一説に「照ればかんばつ 曇れば出水 それも昔の語り草 見やれ自慢の 石淵ダムは 伸びる胆沢の 底力」とあります。石淵ダムに寄せる農民の喜びがひしひしと伝わってきます。
 しかし時代は高度成長への助走期、食糧を増産するため、特に新田の開発は奨励されました。果樹や桑畑などを、次々と水田に変えていったものです。胆沢平野は再び慢性的な水不足となって今に至ります。
 農家と土地改良区は協力しあって、計画的に水を配分する「番水」を行い、2・3年に一度見舞われる渇水をかろうじて乗りきってきました。深夜に巡回した時の記憶ですが、暗がりの中で農家のお嫁さんが、水路のわずかなたまり水をすくっては稲にかけていた光景が忘れられません。このように切実な苦労の根本的な解決策は、安定した水源を確保するという一点に尽きます。水不足を脱する長年の悲願が、胆沢ダムによっていよいよ叶うと期待しております。




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●豆知識

居久根(エグネ)と散居集落


 一面の水田に家を点々とちりばめたような、胆沢平野の風景。このような集落の姿を、「散居集落」と呼びます。胆沢平野は、富山県の砺波平野、島根県の出雲平野と並ぶ、「日本の三大散居集落」。
 住まいをぐるりと囲む屋敷林は、胆沢の方言で「エグネ」と呼ばれ、冬の冷たい季節風から守ってくれます。燃やして暖をとるための薪をエグネの下に積み上げた「きづま」も、胆沢ならではの景観です。




於呂閇志胆沢川神社

 藤原時平らが延喜五年(九〇五)に、律令の施行細則の編纂に着手し、延長五年(九二七)に完成したものが「延喜式」です。そのうち「延喜格式神名帳」には、全国三、一三二社が登載されており、岩手県内には一四社あって、半数の七社は全て胆沢郡内に建立されています。
 現在、徳水園に近い若柳土橋に合祀されている「於呂閇志神社」と「胆沢川神社」の里宮は、共に格式の高い延喜式内社です。猿岩にあった於呂閇志神社は、今は奥の宮と呼ばれ、県指定天然記念物ユキツバキ群落の自生地で知られています。
 猿岩の於呂閇志神社は、昔から農家の信仰を集めていて、例祭日にはお詣りをしてユキツバキの小枝と笹の葉をいただいて、それを田んぼの水口に立てて豊作を祈るという風習は今でも続いています。



胆沢ダム学習館

 胆沢地方の水と歩んできた歴史や自然、石淵ダムと胆沢ダムの取り組みについて学べるミュージアム。模型や映像などを使ってひと目でわかるようになっているので、体感してみましょう。小中学校やNPOと協力し、さまざまなイベントも開催しています。とくに毎月第3土曜日の「みずの杜学園」は人気です。自然観察や川遊び、炭焼き体験などのプログラムに参加してみてください。



住所:奥州市胆沢区若柳字馬留81-1
TEL:0197-49-2501



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