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 「奥州街道」は江戸幕府が定めた幹線道路である五街道の一つで、「奥州道中」とも呼ばれた。江戸から宇都宮までは「日光街道」と重複するため厳密には宇都宮から白河までだが、その延長として盛岡を経由し、青森あるいは三厩までの道をも指した。江戸時代後期の「五街道中細見記」には、「江戸日本橋ヨリ奥州道中筋」として三厩を終点と記している。明治以後、江戸・青森間の奥州街道は「陸羽街道」として整備され、後の国道4号の基となった。
 奥州街道は岩手県二戸市から青森県に入り、その入り口が三戸町の蓑ケ坂である。慶安2年(1649)の「大道筋」に「長さ20町、坂の内道広さ1間、狭き所にて3尺」、また「邦内郷村志」には「大難処不通 馬足、九曲折坂也」と書かれている険しい山道だ。名の由来に、近くの沼に棲む大蛇が蓑に化けて旅人を害したという伝説が残る。明治9年の天皇巡幸の際、天皇が乗った2頭立ての馬車がこの坂で立ち往生し、地元の若者10人が馬車を押し上げて助けたという。

 蓑ケ坂を登り切ると、駕籠立場に至る。ここから美しい山並みや蛇行する馬淵川などが眺められ、その風景は旅人の疲れを癒したことだろう。江戸時代末期には「吉兵衛茶屋」があったそうだ。現在蓑ケ坂は廃道になっているが、松や桜などに囲まれた駕籠立場には、2度の巡幸を記念する「明治天皇駐蹕の地」碑や馬車を助けた若者たちを称える記念碑、吉田松陰の「東北遊日記」碑が建っている。そこから幅2mばかりの山道を5、6分ほど下ると、道の両側に往時の一里塚(県文化財指定)が残り、さらに5分ほどで国道4号に出る。
 三戸町から田子を経て秋田県鹿角へ至る「鹿角街道」(現在の国道104号)と奥州街道の分岐点に、かつては追分石があった。「右ハかつの 左ハもり岡」の文字が刻まれ、多くの旅人の目印になったであろうこの追分石は、今は城山公園内の三戸城温故館近くに移され、ひっそりとたたずんでいる。
 

 


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