庄内の歴史

北前船による商業と米作りで栄えた湊町・酒田

近世、最上川の舟運を用い、米や内陸の紅花等が河口の酒田港へ集積された。それを北前船を使い、東廻り航路、西廻り航路で上方や江戸へ輸送することで酒田は発展。
特に西廻り航路は寛文12年(1672)に河村瑞賢により整備されたが、この航路の整備が酒田に与えた恩恵は大。
舟運で栄えた酒田市では、井原西鶴の「日本永代蔵」で紹介された鐙屋(あぶみや)、日本一の大地主として知られる本間家など豪商が軒を連ねていた。
明治時代に入り鉄道が出来ると舟運は衰退。酒田港は昭和26年に重要港湾に指定され、貨物の増加に対応するため北港地区を整備。
現在、東方水上シルクロードや釜山港とのコンテナ航路が開設され、アジアとの交易が進められている。
また、平成12年7月14日には、コンテナの取り扱い量の増加と大型船の入港に対応すべく、国際ターミナルを供用。
さらに、現在、中国黒竜江省と酒田港を結ぶ「綏芬河(すいふんが)ルート」が検討されており、酒田港が環日本海交流に果たすべき役割は、今後ますます重要。


東廻り航路・西廻り航路


本間家旧本邸

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庄内藩のお膝元 城下町・鶴岡

元和九年(1623)、それまで庄内を治めていた最上家の改易に伴い、酒井家が庄内藩を統治。以降明治に入るまで酒井家が庄内を治め、鶴岡は城下町として発展した。


鶴岡城下図(延宝6年(1678))


現在の鶴岡城跡周辺図


致道館

お堀周辺及びため池周辺が埋められた以外、市街地の形成に大きな変化が生じていない。さらに明治・大正時代に作られた欧風建築物もいくつか存在し、日本文化と洋風建築物の融合した街並みを形成。

致道館(ちどうかん)

文化2年(1805)士風刷新と藩政振興を図るため九代目藩主酒井ただあり忠徳により創設。明治6年に廃校。東北地方に現存する唯一の藩校建築。
※致道とは論語第十九章の一節「君子学んで以て其の道を致す」に由来する。

庄内竿・絵ろうそく・御殿まり

城下町の歴史と暮らしの中で様々な民芸、工芸は生まれ、はぐくまれてきた。庄内竿等、伝統を守る気質が脈々と受け継がれている。


庄内竿


絵ろうそく


御殿まり

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奥の細道と庄内

元禄2年(1689)7月、最上川を下り、庄内に入った芭蕉は酒田で生まれて初めて日本海を臨む。各地で手厚いもてなしを受けた一行は、一度ふくら吹浦を通りきさかた象潟まで行き、また酒田に戻りそこから奥の細道も後半となる越後路へ向かった。


芭蕉のたどった庄内のルート


交通の難所だった三崎街道(遊佐町)

《清川》
五月雨を あつめて早し 最上川
《羽黒山》
涼しさや ほの三か月の 羽黒山
有難や 雪をかほらす 南谷
《月山》
雲の峯 幾つ崩れて 月の山
《湯殿山》
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
湯殿山 銭ふむ道の 泪かな (曾良)

《鶴岡》
めずらしや 山をいで羽の 初茄子
《酒田》
暑き日を 海に入れたり 最上川
《三崎山》(遊佐町)
あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ

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被災者3,300人にものぼる酒田大火~わずか2年半での復興~

昭和51年(1976)10月29日17時40分、酒田市商店街から出火した炎はまたたくまに酒田市中心市街地を焼き尽くした。酒田市はその復興に全勢力を注ぎ、2年半後、復興を果たした。


酒田大火被災範囲


酒田大火の火災状況


酒田大火の火災後の状況

概要

焼失面積…22.5ha
焼失建物…1,774棟
被災者…3,300人
死亡者…1名(消防長殉職)
負傷者…964名
被害額…405億円(現在価値:614億円)
※激甚災害に指定

復興による新たなる市街地の形成

道路を4車線化
中央分離帯の緑化
公園緑地を設置
街路樹を1000本植樹。(イチョウ、モチ等)
市街地再開発事業により近代的商店街の形成

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