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■水防有名人物伝(田中丘隅)

 田中丘隅(たなか きゅうぐ)は、寛文2年(1662年)に武蔵国多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)に生まれました。父は名主窪島(久保島)八郎左衛門。1684年頃川崎宿本陣田中家の養子となり、宝永1年(1704年)に本陣当主を継ぎ、宝永4年(1707年)に川崎宿問屋役名主役に就きました。
 丘隅は、「民間省要」を徳川8代将軍吉宗に上達し、享保8年(1723年)吉宗に評価されて召し出され、30人扶持支配勘定並に抜擢されました。幕府としては丘隅の水利思想の実践に伴う水防強化と新田開発に期待することが大であったと推察されます。丘隅は、同年、田中丘隅右衛門と改名しています。
 田中丘隅は、享保11年(1726年)に酒匂川の水利事業に着手します。酒匂川は扇状地河川を形成し、宝永4年(1707年)の富士山噴火に伴う降灰と上流からの流送土砂により、荒廃河川に変貌して、その水防は手のつけようがありませんでした。
 関東郡代伊奈半左衛門による酒匂川の治水工事は失敗し、繰り返される治水工事は、洪水の度に破堤する有様でありました。丘隅は、酒匂川の治水事業にあたって、扇状地の扇頂堤を再築堤するとともに、堤防前面に不透過水制「弁慶枠」を配し、もって堤防の洗掘破堤の防止を図りました。この「弁慶枠」は丘隅の考案したものと言われ、後、桂川や多摩川等の荒廃河川に多用されています。
 酒匂川では、寛文2年(1662年)に、透過水制「三角枠」が使用されていましたが、富士山噴火後の河相変化は、大量の流送土砂を伴い、水制工の変化を余儀なくされていました。
 河相に合った河川土木技術の適用こそ、丘隅の言わんとするところで、「弁慶枠」のように、枠内に詰石をして沈設し、激流に動じない構造を有しているのです。
 一方、地元民には、春の祭礼時、堤防上に捨石と枠の詰石用土石を集積するよう指導し、あわせて地元民の堤体踏み固め効果をねらうなど、地元民の水防強化と堤体保護に深い洞察力を持っていました。
 享保14年、丘隅は、多摩川・酒匂川水利事業の功により、武蔵国多摩・埼玉2郡3万石支配勘定格代官に任じられました。しかし、多摩川下流右岸の南河原から川崎の堤防改修工事を最後に、同年、67歳で病死しました。

執筆:岩屋隆夫著「新多摩川誌」

主催 東北地方整備局/秋田県/大曲市等31市町村
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国土交通省 東北地方整備局 湯沢河川国道事務所 調査第一課
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