1-(1) 流域及び河川の概要

 最上川は、その源を山形・福島県境の西吾妻山(標高2,035m)に発し、置賜白川、須川、寒河江川等の支川を合わせ、さらに内陸地方の米沢、山形の各盆地を北上し、新庄市付近で流向を西に変え、鮭川等の支川を合わせ、最上渓谷を通って広大な庄内平野を経て、酒田市において日本海に注ぐ、幹川流路延長229km、流域面積7,040km2の一級河川である。

 その流域は、山形県の約8割を占めており、内陸及び庄内地方における社会・経済・文化の基盤を成すとともに、自然環境に優れており、山形県の「母なる川」として深く県民に認識されていることから、本水系の治水・利水・環境についての意義は、極めて大きい。

 最上川は、内陸部に広がる水田地帯を悠々と流れ、豊かな自然環境と良好な河川景観を有している。

 源流から米沢盆地に至る上流部は、ブナを始めとする原生林が河畔に残り、瀬や淵が繰り返す豊かな河相には、イワナ・カジカ等清流に生息する魚種が多く、自然あふれる渓流域となっている。

 米沢・山形盆地が広がる中流部は、川幅が広くなり、砂州を伴い蛇行している。また、広い高水敷の多くは、農耕地として利用され、その他の場所は豊かな植生で覆われている。その下流では、河岸段丘の底部を流れ、川幅が狭くなっており、所々で狭窄部になっている。特に最上峡は、周囲の滝や河床の露岩とミズナラ・コナラ等の周辺植生が創り出す雄大な景観で、芭蕉の句にも詠われるなど最上川を代表する峡谷景観を形成し、四季を通じた船下りの観光地としても名高い。

 庄内平野を流れる下流部は、河床勾配が緩く、川幅も広くなっており、その高水敷には、ヨシ・オギ等が密生し、水辺にはサギ・チドリ類等の夏鳥のほか冬鳥の飛来も多く、多様な鳥類相を呈している。

 特に両羽橋付近に毎年飛来する数千羽のハクチョウは有名で、地域住民に親しまれている。

 最上川の高水敷等には多くの民有地が存在するが、市街地周辺では運動広場・公園等が整備され、スポーツ・伝統行事等に利用されているほか、特に秋の風物詩として芋煮会のシーズンには、地域の交流の場として賑わいを見せる。また、筏下り等の水面利用も盛んである。

 最上川の水質は概ね良好であり、BODによる環境基準値を上流の一部を除きほぼ達成している。

 最上川水系は古くから水害が発生しており、戦前の主な洪水には大正2年8月の台風による大洪水、昭和19年7月の梅雨前線による大洪水がある。戦後の洪水としては昭和42年8月の羽越豪雨があり、低気圧性の大雨で飯豊山系を中心に未曾有の集中豪雨となり、上流域で甚大な被害をもたらし激甚災害に指定された。また、昭和44年8月の前線により、月山から中流部にかけて大雨となり、中下流域では河川の水位が上昇し各地で氾濫した。特に主要国道が不通となり、内陸と庄内が一時全く分断された。

 最上川水系の治水事業については、下流部は、直轄事業として大正6年に清川地点の計画高水流量を6,100m3/sec、支川赤川の鶴岡地点の計画高水流量を2,500m3/secとし、清川から河口及び赤川の高水工事に着手したが、大正10年に計画を改定して支川赤川を分離する赤川放水路に着手し、昭和11年に通水した。その後、昭和24年に最上川の清川地点における計画高水流量を7,000m3/secと改定した。上流部では、昭和8年に大石田における計画高水流量を5,200m3/secとして直轄改修に着手し、主として米沢市、長井市、村山市等の主要都市周辺から工事を開始した。中流部では、昭和32年より改修工事に着手し、その後、ダム計画を含め中流部を一体とした流量の検討を行った結果、下野地点における計画高水流量を4,800m3/secに改定した。

 しかしながら、昭和42年8月、昭和44年8月と大出水が相次いだこと及び河川流域の開発状況等にかんがみ 、昭和49年に基準地点両羽橋において基本高水のピーク流量9,000m3/secとして、これをダム群及び遊水地により1,000m3/sec調節し、計画高水流量を8,000m3/secとする計画とした。

 一方、秋田県西部・山形県西北部は、地震予知連絡会により昭和53年に特定観測地域として指定されるとともに、秋田県・山形県西方沖には、地震空白域が存在することが専門家により指摘されている。

 河川水の利用については、農業用水として、約124,100haに及ぶ耕地のかんがいに利用され、水力発電として、大正3年に建設された旭発電所を始めとする22箇所の発電所により総最大出力約202,700kWの電力供給が行われ、水道用水として、大正2年の山形市を始めとして11市15町に対して供給が行われ、工業用水として、酒田臨海工業団地等に対して供給が行われている。