最上川から海をわたって山形の特産物を送った帰りの船は、都でつくられたものや、さまざまな文化を運んできました。山形県内のあちらこちらに残るひな人形や、庄内地方の言葉づかいは、京都から伝わったものといわれています。
江戸から山形をおとずれた俳人(俳句をつくる人)松尾芭蕉(
)は最上川を舟で下り、あまりの流れの強さに、「五月雨をあつめて早し最上川」という有名な俳句を残しています。
旅をしながら俳句をつくった俳人
松尾芭蕉
資料提供/山寺芭蕉記念館
「五月雨をあつめて早し最上川」
「五月にふる雨を集めた最上川は、さらにたくさんの水を集めてみちあふれ、すべるようないきおいで流れていく」という意味
昔は、低いところを流れる川から、高い場所に水を取り入れることがむずかしく、広い土地があっても、米や野菜をつくることがなかなかできませんでした。また、日照りが続くと水不足になって農地がかわいてしまい、せっかく育てた農作物をからしてしまうなど、とても困っていました。そのため、昔の人たちは、川から水を引いてくらしに利用する「利水」(
)のために、たいへんな努力をしてきたのです。
最上義光の家臣で、狩川(現在の庄内町)城主だった北楯大学利長は、水不足でなやみ苦しんでいる村人たちを救おうと堰(
)をつくり、立谷沢川(
)から水を引くことを考えました。工事はとてもむずかしく、たいへんな苦労をしましたが、あれ地だった土地は美しくりっぱな水田となりました。今から400年も前にできたこの堰は「北楯大堰」とよばれ、その後建て直され、今も庄内平野の田畑をうるおしています。
現在の北楯大堰
北楯大学利長
資料提供 / 北館神社
江戸時代に日本各地を旅して山形県内にもたくさんの俳句を残した俳人
川の水をさまざまな産業やくらしに利用すること
水を他へ引いたり水の量を調節したりするため、川の水をせきとめる施設
月山から庄内町を流れて最上川にそそぐ川