最上川の歴史
都とつながる山形
 最上川には、船で人や荷物を運ぶ舟運が江戸時代以前からありました。その舟路はさまざまな人たちの努力で整えられ、次第に大きく発展しました。船による交通によって、置賜地方・村山地方と酒田の港、さらに酒田から海をわたって京都・大阪との交流がさかんになりました。こうして最上川は「文化を運ぶ道」として山形県に大きなえいきょうをあたえました。

商人のつくった舟路
 米沢藩から京都との商売をゆるされていた商人の西村久左衛門は、置賜地方の発展のために自分の財産を使って、糠野目と左沢のあいだを船が通りやすいように工事しました。この工事によって、置賜地方から酒田まで荷物をちょくせつ船で運べるようになりました。この工事は、2年という長い時間と、今のお金にして約17億円という大金がかかった大きな工事でした。
最上川の主な河岸・船着場
 

西廻り航路
  日本各地で商売をしていた河村瑞賢は、酒田から現在の山口県下関を通り、大阪まで船で行く海の交通路を開きました。これは「西廻り航路」とよばれています。山形県内でつくられた米や紅花(1)などのたくさんの荷物は、最上川を通って酒田に集められ、そして海をわたって大阪や京都に運ばれるようになりました。この舟運の発達により、遠くはなれた京都の文化も山形に入ってくるようになったのです。
酒田市、日和山公園にある河村瑞賢の像
酒田市、日和山公園にある
河村瑞賢の像

最上川舟運の発展
  酒田と大阪を結ぶ船の交通がさかんになると、米のほかに紅花や青苧(2)など、山形の特産物が広く知られるようになりました。とくに山形の紅花は品質がよく、「最上紅花」として人気を集めました。また、最上川ぞいには、人や荷物の積みおろしをするための河岸や船着場(3)がたくさんつくられ、急な流れや細い川にも入っていける小さな船、「小鵜飼船」が登場しました。
  なかでも大石田の河岸は、舟運の重要な中継地として、大いににぎわいました。

明治時代の最上川と小鵜飼船
明治時代の最上川と小鵜飼船
資料提供 / 大江町 菊地写真館
最上川でもっとも栄えた大石田町の河岸。今は江戸時代の船着場のようすが再現されています
最上川でもっとも栄えた大石田町の河岸。
今は江戸時代の船着場のようすが再現されています。
 航路が開かれたことで、たくさんの荷物を遠くまで運べるようになったんだ。


むずかしい言葉の意味
1
紅花

そめ物に使うせん料やお化しょうの紅の原料
山形県の花

2
くきをはいで中から繊維を取り出し、布を織る材料になる植物
3

河岸 船着場

川の交通のためにつくられ、荷物を船に積みおろしする場所
 

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