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伊能忠敬 三陸測量の軌跡

 19世紀のはじめ、日本地図を実測で作り上げた偉人伊能忠敬。蝦夷地(今の北海道)測量に次いで、1801年に三陸沿岸を訪れました。その功績をたたえて、1814年釜石市唐丹町に「測量の碑」が建立されました。江戸時代に忠敬の測量事績を残した全国唯一の場所です。
 測量200周年を記念して、2001年9月23日に「伊能忠敬海上引縄測量之碑」が建立されました。記念碑建立に先駆けて行われた、「伊能忠敬測量200周年記念シンポジウム」の内容とともに、伊能忠敬三陸測量の軌跡をご紹介します。
測量の碑・星座石

 測量の碑と星座石は、文化11年(1814年)釜石市唐丹の天文暦学者・葛西晶丕(まさひろ)が、日本地図作成のために三陸海岸の測量にあたった伊能忠敬の業績を顕彰して建立されました。江戸時代に忠敬の測量事績を残した全国唯一の場所で、科学史上貴重な資料です。

測量の碑 星座石
<測量の碑と星座石、また葛西晶丕の弟子たちがその偉業をたたえて建立した遺愛の碑が建っている> <星座石:北緯の度数を中心にそのまわりに黄道十二宮と十二次といわれる星座を交互に配列、石に刻したもの>
伊能忠敬海上引縄測量之碑

 釜石市唐丹町大石の大石漁港出河岸前に、「伊能忠敬海上引縄測量之碑」があります。伊能忠敬の測量200周年を記念して、平成13年9月23日に建立されました。

 記念碑には以下のように記されています。
享和元年(1801年)、全国測量中の伊能忠敬は陰暦9月23日当地に至り、ここ大石出河岸を起点に海上引縄を以って真北の海岸佛ヶ崎まで測量した。翌24日夜、本郷に於いて緯度を観測『北極出地丗九度壱拾弐分』とした 古老の口碑並びに調査の結果としてこの碑を建立した。
「伊能忠敬測量日記」よる
伊能忠敬海上引縄測量之碑
<伊能忠敬海上引縄測量之碑>
伊能忠敬測量200周年記念シンポジウム

 記念碑建立の前の平成13年2月1日に、「伊能忠敬測量200周年記念シンポジウム」が開かれました。作家の井上ひさし氏の基調講演と、「測量技術が社会経済文化に与えた影響とこれからの社会」というテーマで、パネルディスカッションが行われました。当時の議事録から、内容を紹介させていただきます。


  伊能忠敬は55歳で日本の測量を始めた

 現在の平均寿命から考えると、55歳から新しい事を始めるのは珍しいことではありません。しかし、200年以上前に隠居後に新しい事を始めるというのは、驚くべきことです。まずは、忠敬の生涯を簡単に紹介します。

 忠敬は1745年に今の千葉県で生まれました。医者か星学者を目指す、勉強熱心で頭のいい少年でした。18歳の時に、佐原の名門、伊能家に養子に入ります。働き者で商売を成功させて、伊能家を盛り立てます。やがて、村の名手となり、その後村方後見人に任命されます。村方後見人の仕事は水帳の管理です。村々の水の流れを把握して、何か起きた時にはその帳面に基づいてもめごとを仲裁する役目でした。この仕事には、水田の測量が必要となってきます。忠敬は独学で測量を勉強します。そして隠居後、天文学者の高橋至時に弟子入りし、1800年に55歳で測量の旅に出ることになります。16〜18年かかって、日本すべての海岸線を歩くという大事業を成し遂げます。

 現在は平均寿命が伸びて、定年後20年や30年は自分の時間を持てるようになりました。忠敬のように小さいころから興味を持っていたことに取り組みたい、と考えている方も多いのではないでしょうか。 忠敬は少年時代から、つかず離れず天文学的なことにずっと関係があった。しかも村方後見人時代の主な仕事は測量。自分の趣味が小さいころからなりたいと思っていたことを実生活でもきちっと生かして、勉強を重ねていたから、隠居後に本格的にその仕事をすることができた。そういう長い経過があったからこそ、偉業を成し遂げられたのではないでしょうか。

それまでの人生でどれだけ勉強し、自分の仕事に生かしてきたかが勝負となってくるようです。200年以上前の偉業から、現代人が学ぶことはたくさんあるようです。


  本当の目的は地図の作成ではなかった

 この国での「子午線1度の長さの実測」、つまり北極星に向かって(真北に向かって)地上を何里歩いたら北極星の高さが1度上がるのか?ということが知りたかったようです。これに360をかければ円周が出るので、地球の円周を知ることができます。ヨーロッパではすでに答えが出ているのですが、日本人はまだ実際に測っていませんでした。伊能忠敬が弟子入りした、高橋至時が天文学者の麻田剛立にあてた手紙の中に、「忠敬に子午線1度の実測をやってもらおうと思っている」という内容が出てくるそうです。
 当時の幕府は、「子午線1度の長さの実測」に大きな関心を持つとは考えにくので、蝦夷地(今の北海道)の地図を実測で作るという名目で、北に向かって出発しました。その時幕府は防備を固めるために、蝦夷の地図を大変必要としていました。何度かの測量を経て、28.2里という値を、高橋至時に報告しました。しかし、これが正しいのかどうか評価する尺度を持っていなかったので、なんとも言えなかったようです。後年、高橋至時がオランダの天文学書を見て、ほぼ一致する数字であると知るのでした。

現在では地球の子午線の長さは約4万kmとわかっています。
1里は約4kmですから 28.2×4×360=40,608 ほぼ一致します。
この数字から、忠敬の測量がどれほど正確だったのか実感することができます。


  三陸の測量は時間がかかった

 伊能忠敬測量日記を辿ると、三陸の測量にどれだけの時間がかかったのか知ることができます。三陸を通ったのは第二次の測量で、岩手県に入ったのは今の暦で10月25日です。初めはその岬の海岸線とおりに測りましたが、陸前高田や大船渡より北は、波打ち際を測ることができない、岬の上の道を突端まで行くことが出来ない地形が続きます。そこで船を出しました。岬のこちらと対岸の目印の距離を測ったのではないかと想像できます。
 三陸沿岸の伊能図を見ると、全体としては非常に正確ですが、岬のひとつひとつを国土地理院の地図と地形図と比べると、やや不自然さがあるのは、観察にとどめた岬が非常に多いからと推測できます。
 測量日記によると、岩手県では21泊22日、このうち天候が悪くて測量できなかったのが2日あるので、実質19日間で通過しています。宮城県側から入って三陸沿岸を移動して青森県へ抜けるまで、今で言えば旧道を通ったはずですから、現在の国道45号のようにはいかないでしょう。移動した距離をだいたい250kmと見た場合、三陸沿岸における1日の平均移動距離は約13キロとなります。同じように計算すると、奥州街道を通った際の1日の平均移動距離は約29キロ、と計算できます。三陸沿岸は、いかに困難であったかということがわかります。


  伊能忠敬と葛西晶丕は会っているのか?

 2つの説があり、岩手大学の先生は、「かくたる証拠はないが、会っているはずである」と報告しています。まず、忠敬は唐丹村に2泊しています。泊まった家が西村家、これは葛西と同じです。それから、葛西が天文、暦学を学んでいた人とすれば、同じ学問のよしみで会っているはずだ、ということです。
 これに対して、東京都立大学の先生は、「会っていることは考えられない、2人は会わなかったであろう」ということを東北地理という論文に出しています。日記にも、葛西の名前は出てきません。同じ学問を志す者に会ったら、きっと日記に残すはずですが。
 パネルディスカッションに参加していただいた、伊能忠敬研究会会員の渡部健三氏は、この2説をふまえて、「会っていると思う」と発言されています。個人的には、会っていると思いたいですね。


  測量のために歩いたのは4千万歩か、5千万歩か?

井上ひさし氏の講演より
「4千万歩というのは実は後で気がついたら間違いです、あれ。あれですね一間を2歩で歩かなきゃいけないんですね。忠敬はだいたい1メートル56くらいですから、僕は編集者と二人で庭を何回も測った時に確かに一間を2歩でいいんじゃないか思ったんですが。刀差したり袴はいたりすると一間やっぱり2歩半くらいですから。本当は5万歩が正しいんですけど。題名を変える訳にいかなかったもんですから、まあ4万歩に。まあ象徴として4万歩、たくさん歩いたという事で。」

一間は約1.8m、現代人の感覚だと2歩くらいと想像しますね。4千万歩でも、5千万歩でもたくさん歩いたことは伝わります。忠敬はこれだけ歩き続けたので、16〜18年測量を続けるほど健康で長生きできたのかもしれません。
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