戊辰戦争の際、官軍の来襲
に備えて掘ったという塹壕跡

 歴史に残る戌辰の役といわれる戦さが慶応四年(1888)の春から秋にかけて奥羽の各地で起った。 会津藩が落ちたあと幕府勢の最後のとりでとして残ったのが奥羽列藩同盟の主力である庄内藩だった。庄内藩は日本一の大地主の本間家財力の援助を得て意気・戦力は旺勢であった。庄内軍は自分の領内での戦闘を避けるため、積極的に領外へ進行して秋田・新潟・狩川・六十里越の要所を固めた。


  六十里越街道は庄内進行を決定する最も重要な戦略地点であり、薩長軍(官軍)の主力はここに集中した。最も激しく戦闘が行われたのがこの六十里越と寒河江地方 (長岡山・白岩)だった。この戦いは春と秋の二回に分けられ、春は庄内勢が他の利をいかして優勢に立ったが、秋には庄内藩は降伏した。六十里越街道沿線の村人は人足に駆り出され終戦後も官軍の通行や庄内軍の差し出した武器の輸送にあてられ、村人の負担は非常に大きなものであったという。
 更に時代が経ち、三島通庸が山形県令になると道路の整備・開さくに大いに力を入れるが六十里越街道にはあまり目は向けられなかった。明治32年(1899)いわゆる大館藤兵ヱ道路といわれる大県道の着工がなされたが、大県道はできたものの、自動車もなく歩く時代では旧道より遠まわりになるので多くの人々は近道の旧道を往復していた。


  自動車の発達に伴い、昭和7年から9年にかけて(田麦俣・大網・名川・熊出)大改修。昭和28年に2級国道112号に指定され、40年に一般国道となった。月山道路30.9キロは豪雪地帯でもあるために冬期間の交通確保のため大改修が行なわれ、56年全線開通。今まさに県の花形道路として大きく変貌しようとしている。


大網から湯俣までの通行手形
( 鶴岡市立郷土資料館 )


一、大あミ村より湯俣迄、駄賃
馬合四疋、 右は六十里口相違
なくお通し下さるべく候、
其の為手形


此の如くに御座候 以上
  申ノ六月廿八日


御番所
きも入 久右衛門 印



制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所