江戸時代後期から明治時代初めに
かけての主要街道 ( 山形県交通史 )

江戸時代における六十里越街道の通路は、現在の国道とは大幅に異なり、今ではほとんど廃道に近い。当時の道は山々を越える急峻な道が大部分であった。その順路は国絵図などからも読みとる事ができるが、残された道中記や報告書などによって更に詳しく知る事ができる。 江戸時代享和二年(1802)に有名な東海道中膝栗毛を出版した戯作者十返舎一九の「金草鞋」という本の一節に、次のような六十里越街道を紹介した文がある。 「鶴が岡の街道を四里ばかりゆきて、右のかた湯殿山があり、ささ小屋という所を過ぎて田むぎの宿なり。全てこの辺、本道寺より湯殿の麓にて、大網より本道寺までを六十里越といふ。田麦俣を過ぎて、大日坊といふ湯殿の山別当の大寺あり。大網の宿御関所あり、これより一里半なり。大網にかかりて泊まる旅人は、お山道者の渡り鳥かな。それより松根をすぎて鶴が岡 の御城下なり・・」 と、当時の六十里越街道の様子を今に伝えている。

 江戸時代に入って三山詣は盛んに行なわれた。六十里越街道の要地志津村村明細書には、慶応三年(1867) 卯年までは毎年20,000人以上の止宿泊人があってこのうち1,400人は峠を越える旅人で残りが湯殿山の参詣者であった。延享二年(1745)丑年の月山通過行者は38,000人。四年11,000人と記してある。羽黒に登って下山するか湯殿山を参詣して帰る者が多く、月山を経由す る行者は少なかったようで、大部分は六十里越街道からまず手向へ向い、そこから羽黒山に登り、また六十里越街 道を引き返し、湯殿山に参詣していた。 六十里越街道を通る旅人の便を図るために、松根・ 大網・田麦俣・志津・本道寺・白岩などの各宿には常に伝馬と人足の備えがあり、時には人をおんぶして運ぶ事もあったという。 ところで、江戸時代庄内藩主の参勤通路は清川から船で最上川を上り、舟形から羽州街道に出、更に奥羽街道を江戸に上るというきまり。しかし、天保五年(1843)は大雪で翌六年の春になっても残雪が多く、清川口が危険であったため六十里越街道を通って江戸へ参勤している。また、秋田藩主もこの道を通って江戸へのぼった記録が残されている。江戸時代の六十里越街道はまさに全盛を究めた時代でもあった。



制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所