能代河川国道事務所(のしろかせんこくどうじむしょ)の学習(がくしゅう)ページ

 今の道路ができるまえの道の様子や、洪水のひがいなど、秋田県北ちほうの川と道の歴史について勉強してみよう!少し難しいから、大人の人と勉強してみよう!

菅江真澄
■羽州街道 うしゅうかいどう
 羽州街道とは、江戸時代のはじめに作られた道で秋田県を通っていました。羽州街道は、江戸から森岡(今の盛岡)を通って油川(青森)まで続く奥州街道(おうしゅうかいどう)から分かれた街道で、桑折(今の福島県桑折町)から始まり、山中七ケ宿通り(今の宮城県七ケ宿町)から上ノ山藩(山形県)に入り、山形藩、天童藩、新庄藩などの領内を通って、秋田領内を北に向かって、青森の津軽藩との境の矢立峠(やたてとうげ)を通って、津軽藩に続いていました。
 羽州街道のルートは、ほぼ今の国道7号・13号と同じ道になっています。羽州街道には、この道を歩いて、当時の秋田の風景や人々のくらしなどを記録した菅江真澄(すがえ・ますみ)の歌碑(歌をきざんだ石)などが残されています。また、この道をたずねる活動なども行われています。 

 




昭和47年7月9日
二ツ井町(今の能代市二ツ井町)全町が濁流により水没
■昭和47年の大洪水 しょうわ47ねんのだいこうずい
 昔の米代川は、流れが一定でなく曲がりくねっていたので、洪水がおこるとかんがい用水(田畑に水をひくこと)の取り入れ口がこわれて、田畑に土砂が流れ込むなどの被害がおきていました。
 昭和47年(1972)の7月には、梅雨前線(ばいうぜんせん)の集中豪雨で下流部が大洪水となって、各地に大きな被害がでました。7日から9日朝までの2日間に米代川流域でふった雨の量は、多いところで568mmを記録しました。雨は、藤琴川(ふじことがわ)と阿仁川(あにがわ)流域に集中して、藤琴川の本川合流点付近(二ツ井地区)の右岸堤が1,380mにわたって越水(水が堤防の上をあふれてこえること)し、二ツ井町(今の能代市二ツ井町)の大部分が水につかったり、水にしずんでしまいました。また、能代市の中川原堤防もこわれたために家屋や農地が流され、とても大きな被害がでました。

 ▼もっと詳しく知りたい人は
【米代川ガイドブック】 【S47洪水体験談】




目的地の能代市桧山運河の
水門前に無事筏が到着
■米代川の筏流し よねしろがわのいかだながし
 秋田杉は、豊臣秀吉が伏見城(ふしみじょう)を建てる時にも使われたと言われ、昔から有名でした。江戸時代には、米代川やその支川の流域の山々から切り出された秋田杉をいかだに組んで能代港まで川を利用して運んで、大阪や江戸などに出荷していました。
 明治時代になるといかだ流しは政府の事業として行われるようになり、森林鉄道(トロッコ)の開通で山奥の木を切るところからも土場(貯木場:木を集めるところ)へ丸太をたくさん運び出せるようになりました。
 米代川の豊かな水の流れを利用したいかだ流しは、秋田杉を運ぶ方法として大切なものでしたが、昭和30年代に入ってからトラック輸送が多くなってきたため、昭和39年11月を最後になくなってしまいました。

 ▼もっと詳しく知りたい人は
【米代川ガイドブック】 

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