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釜房ダム物語
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釜房ダム物語

釜房ダムは、たくさんの人々の協力から生まれました。

宮城県内に住む多くの人々の暮らしを支える釜房ダム。
釜房ダムは、以前そこに住んでいた人たちや、地域の人々の協力のおかげで誕生しました。ここでは、釜房ダムが完成するまでのストーリーを、Q&A形式でご紹介しましょう。

現在、釜房ダムがある場所には何があったの?

1970年に完成した釜房ダム。それ以前は、181世帯1,103名が暮らす緑豊かな場所でした。北川と前川が流れ、豊かな耕地が広がる小さな“まち”…。辛い思いをこらえて祖先から受け継いできた土地を離れ移転してくださったみなさんと、地域の協力のおかげで、今日の釜房ダムがあるのです。釜房ダムの建設によって、約408haが水没しました。水没した中には、小学校分校・2校が含まれており、うち1校は児童数減少によって廃止となりました。

ダム建設前の小野(おの)地区・小松倉(こまつくら)地区

水没者宅の移転 *水没した181世帯の移転先は、仙台市が52%、川崎町内20%、県外2%、その他は近くの市町となっています。

 

 

水没用地説明

 

水没で廃校となった小沢分校

 

 

 

 

 

釜房ダムは、いつから何のために作られたの?

釜房ダムは、1940年に、洪水調節と農業・工業用水の確保を目的に、仙台塩釜工業地帯建設の一環として宮城県により計画されました。さらに翌年からは、名取川改修計画の一部として、当時の内務省・仙台土木出張所の直轄事業となって準備が進められていました。
しかし、1944年、第二次世界大戦が激しくなったため、残念ながら中断されてしまいました。

釜房ダムは、いつできたの?

ダム堤体の工事

1944年に戦争のため建設を中断されていた釜房ダムが、再び注目され始めたのは10年後の1954年のこと。戦後になって立て続けにカスリン台風やアイオン台風による洪水の被害に見舞われ、さらに1950年8月には熱帯性低気圧(台風11号くずれ)で大出水が起こったためです。国土総合開発計画の面からも注目され計画を変更。1964年、仙台湾地区が新産業都市に指定されたこととともに、建設省直轄事業として1966年4月に工事が再開されました。
その後、約5年の月日と総事業費87億2千万円をかけて、1970年12月に完成しました。

 

1950年(昭和25年)8月の大洪水の様子

広瀬川

広瀬川 仙台市越路

 

 

釜房ダムが完成して何が変わったの?

釜房ダムの完成により、洪水の被害が減ったことに加え、渇水時にも水不足から人々のくらしを守ることができるようになりました。2020年に釜房ダムは完成から50周年を迎えましたが、現在もずっと、仙台市を中心とした宮城県の多くの地域に水を安定供給しています。

釜房ダムが日本で初めて取り組んだことは?

1975年、釜房ダムは、全国初のダム周辺環境整備事業工事に着手しました。それまで、ダムといえば洪水や渇水を防いだり、水を確保したりという役割だけでしたが、 全国でも初めて、自然環境の保護や河川敷の整備に取り組んだのです。1980年には、釜房湖畔公園(現在の国営みちのく杜の湖畔公園)が全面開園。誰もが、豊かな水のある風景と気軽に親しむことができるようになりました。

  • リンク:ふれあい学習資料館
  • リンク:出前講座

釜房ダムの紹介

  • リンク:湖面利用届出書ダウンロード
  • リンク:流木提供
  • リンク:ダムカード
  • リンク:かまふさダムキッズページ