このコーナーは、胆江地区の各市町村を流れる各河川の川筋をたどりながら、 流域にある様々な史跡や地名などをご紹介していきます。 今回は、水沢市民の憩いの川「乙女川」をたどりながら、流域の風景を散策しました。

 「小違堰」は、茂井羅中堰から胆沢町若柳地内で分水し、南都田と水沢一帯の水田を潤しながら北上川へと流れ出ます。水沢市街地付近では、「乙女川」と呼ばれており、また南都田あたりでは「おおばすがわ」とも呼ばれています。乙女川という名の由来は、かつて水沢城(臥牛城)の城主が、外堀だったこの川での川漁を禁じたことから「御留の川」と呼ばれたことにあります。後に乙女という字を当てたとされています。

 乙女川は、水沢市小谷木橋付近で北上川と合流しています。その付近は、「北上夜曲」の碑をはじめ、水沢競馬場や河川敷ゴルフ場などがあり、多くの人が訪れる風光明媚な地です。北上川舟運が盛んだった時代は「跡呂井港」があり、その名残を今に伝える御蔵場跡を見ることができます。

 河口から北上川と並行するように少し上ると、木製の高い櫓のある公園に出くわします。この辺りは、蝦夷と朝廷軍による「巣伏の戦い」の舞台で、その史実を今に伝え残そうと、公園として整備されたものです。櫓からは水沢一帯の沃土を一望することができます。

 公園を後にして、水沢市立図書館を過ぎ、国道4号を横切ると水沢市街へと入ります。町中を流れる乙女川沿いは、遊歩道がきれいに整備され、川には鯉やウグイが群れをなして泳いでおり、その様子を眺めながらゆったりと散策を楽しむことができます。

 舗道沿いに歩を進めると、ほどなくしてこの界隈で暮らしていた水沢市ゆかりの偉人を紹介している乙女川先人館に着きます。建物の周辺は公園として整備され、川に降りるための階段や飛び石などがあり、川を身近に感じることができます。ここで一息ついた後、搦手橋の乙女観音を拝みつつ、さらに上流へと向かいます。町中を抜けると、乙女川は本来の用水堰の姿となります。 

距離にしてわずか数キロたらずの道のりですが、乙女川はまちにしっかりと馴染み、彩りと潤いを添えながら、今も穏やかに流れ続けています。


◆監  修/阿部和夫
◆参考文献/胆江地区の地名と風土
      [阿部和夫・佐藤英男・宍戸敦 共著]


北上夜曲の碑

羽田小学校の教師だった菊地規先生は、小谷木橋付近の風光明媚な風景に感銘を受け、「北上夜曲」を作詞しました。この歌は全国的にヒットし、今も人々に歌い継がれる日本の名曲の一つとなりました。
跡呂井港の御蔵場

北上川舟運時代の河港として栄えた跡呂井港。ここには、近隣から集められた廻米を一時保管するための蔵群がありましたが、今ではわずかに門が残るのみです。
跡呂井公園

延暦8年(789)、蝦夷征伐のため派遣された紀古佐美率いる朝廷軍と蝦夷の頭領アテルイが合戦し、朝廷側を討ち負かした「巣伏の戦い」の場が四丑付近(この公園の付近)と言われています。
水沢市立図書館

ここには、図書館をはじめ水沢市文化会館「Zホール」、めんこい美術館などの文教施設が集積しており、市民の文化活動の拠点となっています。
乙女川先人館

乙女川の自然や歴史を紹介するとともに、流域から生まれ育った吉川鉄之助、山崎為徳、箕作省吾などの偉人の業績を紹介するための施設です。入場無料。
後藤新平記念館

後藤新平は明治・大正・昭和を生き抜き、東京市長を歴任するなど、近代日本の大政治家で、氏の功績を後生に伝えるために建設されました。
搦手橋

この橋の下付近には、子供たちが泳いだり魚漁りをして遊んだ大きな淵がありました。そこには、河童が住んでいたという言い伝えが残されています。また、平成5年には、観音様が建立され、人々の信仰を集めています。
聖天神社

ここに祀られている歓喜聖天様は、およそ1260余年前にインドより支那(中国)、高麗(朝鮮)を経て日本に渡来したものと伝えられているそうです。もともとは仏寺でしたが、明治維新の排仏毀 釈によって寺はすっかり疲弊してしまい、明治39年に聖天神社と改名されました。聖天様は、男女縁結び、夫婦和合、子宝の功徳、商売繁盛、厄難除去などの御利益があると言われています。女天の十一面 観音様と男天の聖天様がご本尊として祀られています。
 

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