このコーナーは、胆江地区の各市町村を流れる各河川の川筋をたどりながら、流域にある様々な史跡や地名などをご紹介していきます。今回は、金ケ崎町のほぼ真ん中を東西に流れる「宿内川」流域にある散策スポットをご紹介します。

 宿内川は、金ケ崎町の西方にそびえる駒ヶ岳と鉢森山の山あいに端を発し、千貫石溜池に流れ込んだ後、六原扇状地を流れ下り三ヶ尻で北上川と合流する22.5kmの河川です。

 宿内川探訪は、北上川との合流地点である三ヶ尻がスタート地点にふさわしいでしょう。ここには、かつて北上川舟運が栄んだったころの河岸(川港)があり、物資や人々が行き交う交通の要衝でした。また、河口の段丘上には仙台藩の藩境を警護していた金ケ崎城跡と、武家屋敷街があります。北上川と宿内川を見下ろす諏訪神社は、江戸の紀行家菅江真澄がその眺望の美しさに感激し、諏訪八景は近江八景になぞらえ詠んだものと伝えられています。

 三ヶ尻を後にし、国道4号、JR東北本線、東北自動車道を横断しながら上流へと向かいます。近郷の総鎮守として大切に守られてきた熊野神社、立派な山門の法雲寺をすぎると、「御免」というユニークな地名に出くわします。荒れ野を開墾した土地は一定期間租税を免除されていたことから、この地を「御免」と呼んだそうです。

 御免を過ぎると、広々とした農地と県立農業短期大学のキャンパスに行き着きます。六原農場は、伊達藩の鷹狩場で、野火や鉄砲を禁じていた御法度地でした。明治時代に入り軍馬補充部の支部を誘致しました。昭和初期には精神教育の場として「六原青年道場」が設けられ、その後、農業後継者の育成を目的とした六原農場となりました。現農場には、農業短大や県立花きセンターなどがあり、県内外から農業を学ぶ多くの人々が集まってきます。

 六原農場を過ぎると、いよいよ千貫石溜池へとたどり着きます。もともと六原一帯は水の乏しい扇状地だったため、開拓は大変困難を極めました。江戸時代初期に建設が進められた千貫石溜池は、大水が出るたびに決壊しました。このため銭千貫で買ったお石という娘を人柱として完成を祈ったといわれます。堤のほとりの小高い山の頂には、人柱となったお石を供養するため、おいし観音としてまつっています。

 本当にお石という娘を人柱としたかどうかは定かではありません。しかし、高台から六原一帯の沃土を見下ろしつつ、この地域を開墾した人々の苦労に思いを馳せるとき、お石の悲運な生涯とだぶるようで心を締め付けられるような気持ちになってしまいます。


◎千貫石溜池の水門として使われていたもので現在は、記念碑のかたわらに置かれています。

◆監  修/阿部和夫
◆参考文献/胆江地区の地名と風土
      [阿部和夫・佐藤英男・宍戸敦 共著]
       金ケ崎町史
      [金ケ崎町編]


金ケ崎城跡
伊達藩と南部藩との境に位置している金ケ崎町には、藩境の警護にあたっていた金ケ崎城をはじめ、藩境塚や「相去」という地名など、様々な痕跡を見ることができます。
諏訪神社

宿内川岸の断崖にある境内からは、北上川の雄大な流れを見ることができます。菅江真澄(1754-1829)が天明5年に諏訪神社を参拝した際、近江八景になぞらえ諏訪八景という和歌を詠みました。諏訪神社付近は、「荷を重み 風にまかせて 真帆かけし 北上川の かへる舟人」(北上川の帰帆・諏訪堂下)という歌で、当時ここに川港があったことをうかがい知ることができます。
千田正記念館

金ケ崎出身で、参議院議員および岩手県知事を歴任し、郷土岩手の発展に尽力した故千田正氏(1899-1983)を顕彰し、その功績を後生に伝えるため、千田氏の生家、ならびに旧知事公社応接室を移築して建設されました。
熊野神社

大正3年、堀の内から現在地に移されてきた熊野権現三社の一つ。境内は、よく手入れがされており、威厳と格式を感じさせてくれます。
赤石堤

岩手県内でも有数の白鳥の越冬地として知られる赤石堤。白鳥のほか、ガンやカモ類などもたくさん飛来します。餌付けのために訪れる人々も多く、冬場はにぎやかになります。
県立花きセンター

県内の花き振興の拠点として、技術や知識の習得をするための施設。敷地内には展示温室があり、一般 の人でも見学できます。
百寄塚

六原農場の中の小高い丘状の樹林の中に石碑と小祠があります。この百寄塚一帯は、代々仙台藩主の鷹狩りの地で、狩りを記念して塚が築かれていました。安永9年8月(1780)肯山公が鷹狩りをした際の陣所をここに定め、一日平均百もの(百とは数が多いという意味も含む)獲物があったため、ここを百寄塚と命名したと言われています。小祠は、明治31年、軍馬補充部六原支部が置かれた際に建立されたものです。
千貫石溜池

伊達藩の川田堪祐が天和2年(1682)から10年の歳月をかけて築きましたが、たびたび堤が決壊し、困り果 てた村人たちがお石という娘を銭千貫で買い、人柱として牛と共に埋めたという話が伝えられています。また、仙台藩主肯山公が堤のほとりにあった石を見て「価千貫にも替え難き珍石なり」とたたえたことから千貫石という名の由来となったとも言われています。
おいし観音

この像は、元禄4年(1691)に完成した千貫石堤の主として牛と共に人柱となったと伝えられる19歳の乙女おいしの怨霊を哀れんだ地元民が、昭和51年に建立し供養したものです。
南部・伊達藩境塚

天正19年(1591)、金ケ崎が伊達藩領になったのをきっかけに、南部藩と伊達藩が藩境を巡って小競り合いを繰り返していました。そこで、寛永18年(1641)江戸幕府の老中らが立会いのもと絵図に藩境を記し、翌年これに基づき駒ヶ岳から釜石市辺りまで直線にしておよそ130kmにわたって藩境塚が築かれました。
千貫石森林公園の展望台

千貫石溜池周辺には、キャンプ場やバンガロー、ハイキングコースなどを備えた森林公園があります。千貫石溜池から鉢森山方面 へと向かうと、山の中腹に展望台があり、六原扇状地をはじめ遠く早地峰山まで見渡すことができます。
 

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