このコーナーは、胆江地区の各市町村を流れる各河川の川筋を辿りながら、流域にある様々な史跡や地名などをご紹介していきます。第二回目は、江刺市の北東部を流れ下る「人首川」の重染寺付近〜米里間を辿りました。

 人首川は、宮澤賢治がこよなく愛した「種山高原」の山頂付近に端を発し、江刺市の中心市街地の岩谷堂をかすめ、やがて伊手川と合流し北上川へと流れ出る、流路延長およそ30キロメートルの河川です。
 菊田一夫作「鐘の鳴る丘」のモチーフになった明治記念館との景観調和を図った重染寺頭首工を眺めながら、頭上の美しいアーチ橋「夢乃橋」をくぐると、今回の人首川探訪がはじまります。


「県道水沢・人首・住田線」は、人首川と離れることなく走る一本道のため、道に迷うこともなく、山間の田園風景を眺めながらのドライブが楽しめます。人首川のほとんどは緩やかな里川ですが、玉里の白山橋付近では、ゴツゴツとした岩の間を白泡をたてて流れる渓谷美を見ることができます。白山淵には竜宮伝説とよく似た言い伝えがあり、また近くの白山皇大神宮境内には、白山渓の滝壺の水の音が響いてくるという奇岩もある、とても興味深いポイントです。

 さらに上流へと向かうと、人首町に入ります。中心街にはモダンな洋風の建物が多く見られますが、ここ米里一帯では藤原氏の時代から昭和の初め頃まで金鉱採掘が盛んに行われており、江刺市の中でも岩谷堂に次ぐ賑わいを見せた街でした。それらの建物は、往事の繁栄を知る数少ない痕跡の一つと言えるでしょう。

 人首町を過ぎると、かつての金山跡が点在する根津葉、重王堂、古歌葉地区に辿り着きます。この辺りになると、川幅はぐっと狭くなり、水は美しく澄み、源流が近いことを教えてくれます。古歌葉は数軒ほどの小さな集落ですが、よく手入れされた田畑の風景、人々の暮らしぶりがまるで一幅の絵画のようで、「楽土」という形容にぴったりの地域です。

 遙か昔、蝦夷の頭領アテルイの弟である大武丸に、人首丸という美しい少年がいました。人首丸は朝廷との戦いに敗れ、米里の大森山にたてこもり討死したと言われています。その墓が今も大森山山頂の西側直下にあり、人々は「鬼っこの墓」と呼んでいます。そのお墓まで行くことは道が整備されていないため困難ですが、このようなエピソードを心に止めながら散策すると、きっと新しい何かが発見できることでしょう。
 

◆監  修/阿部和夫
◆参考文献/胆江地区の地名と風土
     [阿部和夫・佐藤英男・宍戸敦 共著]
      江刺市史第四巻
     「社寺旧跡篇」[江刺市編]


岩谷堂城跡

奥州藤原三代の栄華を築いた初代藤原清衡氏の父経清が築いた居館があり、藤原氏滅亡後も葛西氏、仙台藩の重要な城としての役割を果 たしてきました。現在は、岩谷堂市街を一望できる「夢乃橋」が架けられ一帯が「館山史跡公園」として整備され、散策コースとして絶好のポイントとなっています。
えさし藤原の郷

えさし藤原の郷は、奥州藤原氏の歴史をたどりながら、東北の歴史と文化が体験できるテーマパークとして平成5年6月に完成しました。藤原清衡らの居館豊田館や政庁、伽羅御所、金色堂などが忠実に再現されています。平成14年NHK大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」のロケ地となっております。
益沢院跡

藤原清衡が60歳の頃、紺紙金銀字交書一切経の奉納を思い立ち、5300巻あまりの写 経を8年がかりで大勢の僧侶に書写させました。その写経所となったのが、ここ益沢院であり、現在の増沢地内にあったと言われています。
玉崎神社

由来書によれば、延暦22年(803)坂上田村麻呂が人首丸討伐の祈願をし、天長2年(825)に、鎮守府より神剣が奉納されました。また、この神社は義経北行伝説のコースにもなっており、平泉を脱出した義経主従が道中の安全を祈願するため5日間参籠した際、槍や太刀、経文などを奉納したといわれ、それらが今も社宝として大切に保管されています。
白山渓

白山橋から上下流を眺めると、古くから白山滝や白山淵と呼ばれ親しまれている景勝地があります。ここには、「竜宮伝説」に似た説話が伝わっています。また、竜宮で機を織る娘から授けられたといわれる「宝晶の玉 」が、ここからほど近い白山皇大神宮のご神体として祭られています。「玉 里」という地名は、ここに由来すると言われています。
江刺種雄牛管理育成センター
かつて名牛といわれた「和人」号や「菊谷」号などの血を受け継いだ和牛を、胆江地区の畜産農家に供給する拠点として重要な役割を担っています。
白山皇大神宮

境内の片隅には、「鏡石」と呼ばれている少しだけ顔を覗かせている岩があり、この岩は白山滝の滝壺に通 じていると言われ、そこに耳を当てると滝の音が聞こえ、さらにこの上に小石を置くと滝の響きで落ちると伝えられています。
角掛森古塚

胆沢郡に伝わる掃部長者と佐用姫伝説の中に登場する龍の角が、佐用姫の投げたしゃく伏によって欠け、この森まで飛んできて突き刺さったということから、「角掛森」と名付けられたと伝えられています。飛んできた角は、後に胆沢町の化粧坂の薬師堂に祭られたとされています。また、ここ火石沢には、藤原氏の時代に採掘されたと伝えられる金鉱跡があるとも言われています。
人首城跡

この城は、いつ頃誰が作ったものかはっきりわかっていませんが、葛西氏の時代、人首如清と名乗る武士が住んでいたといわれます。また、中世には伊達家一族の沼辺氏が居城し、明治維新までの間、南部藩と仙台藩の境を成す北辺の要害として、警護にあたっていました。
古歌葉金鉱跡

米里には、いくつかの金鉱跡があり、「古歌葉」「重王堂」「根津葉」などの場所に金山跡が点在していました。古歌葉地区には金鉱跡の標柱が立っており、その付近には露天掘の跡の痕跡を確認することができます。
 

[Vol.25 INDEX]