【特 集】
いま、水沢市黒石町「正法寺」がおもしろい。


日本一の茅葺き屋根の本堂で知られる「正法寺」は、老朽化に伴い 近年としては最も大掛かりな「平成の大修理」事業が行われています。

その正法寺に古くから伝わるという「正法寺の七不思議」。
それらには、いったいどのようなエピソードが隠されているのでしょうか?

今回は、正法寺の大改修の様子とともに、「正法寺の七不思議」の謎に迫ってみましょう。


曹洞宗大梅拈華山円通正法寺 町田 大謙さん
 私は、埼玉 県秩父市の廣見寺の住職として務めてまいりましたが、昨年の6月から正法寺住職の任を授かることとなりました。
 正法寺は、今本堂の痛んだ部分を修復するため「平成の大修理」が行われています。ここに来てまだ間もない私にとって重責ではありますが、お引き受けした以上は完遂すべく尽力いたしますので、檀信徒の皆様ならびに地域の皆様のお力添えをよろしくお願い申し上げます。
曹洞宗第三の本山

  曹洞宗は、只管打坐(ただひたすらに坐る)、すなわち坐禅の教えこそが正しい仏道と説いた道元禅師(1200〜1253)によって開かれ、現在、全国に約15,000の寺院と、800万の檀信徒を擁する大宗団です。
 大本山は福井県永平寺町の永平寺(1244年道元禅師御開山)で、第二の本山が横浜市鶴見区の総持寺(1321年太祖瑩山禅師御開山)です。かつて、正法寺は永平寺・総持寺と同格とされ、第三の本山と言われていました(正しくは、奥州二州おける第三の本寺)。しかし、江戸時代に正法寺は本山の格を失い、総持寺の末寺となり現在に至ります。

日本一の茅葺き屋根の秘密
 正法寺は、今からおよそ653年前南北朝時代の貞和4年(1348)、総持寺二代住職峨山紹碩禅師の高弟だった無底良韶禅師によって開かれました。正法寺は、東北地方に曹洞宗を布教するための言わば前線基地でした。そのため、開山からわずか二年たらずで第三の本山の寺格を与えられることになり、1,200ヵ寺もの末寺を持つまでになります。
 現在の正法寺の法堂(本堂)は、寛政11年(1799)の焼失によって再建されましたが、なぜあのような巨大な本堂を建造する必要があったのでしょうか。文化財建造物保存技術協会の窪寺茂さんは、次のように推測します。 「正法寺は『よく日本一…』と言われますが、このような大規模の本堂を建設する背景には、多くの末寺を有していたことがあげられると思います。例えば、法要などの時に全ての住職が一同に会することになる。また、本寺としての威厳も必要だったはずです。あのような大きな建造物にもかかわらず、大回廊部分には柱がたった二本しかなく(正確には、梁を渡し加重をうまく逃がしている)、本堂に足を踏み入れた瞬間、その広々とした空間スケールに圧倒されてしまいます」。
 建築的な観点から見ても、正法寺の大きさは「機能性」と「壮観さ」とを兼ね備えた、まさにハイテク建築物だったわけです。
正法寺の七不思議とは?

 正法寺には、古くから語り継がれている七不思議が伝えられています。それは、

(1)飛龍観音 
(2)八つ房の梅 
(3)児なきの池 
(4)虎フの竹 
(5)片葉の葦 
(6)文福茶釜 
(7)慕弥の扇

(内容は伽藍配置図の説明文を参照のこと)。

 残念ながら、これらのエピソードが、いったいいつ頃から伝えられてきたのか、またこれらに込められたメッセージが何なのかは定かではありません。しかし、これらのエピソードからは哀れみの情や慈愛、人々の切なる願いなどが伝わってくるようです。おそらく、雲水(修行僧)や檀信徒、また正法寺を訪れる人々に語り聞かせ、人の心の誠を諭していたのかもしれません。あるいは、お寺の布教宣伝用キャッチコピーとして、用いられたのかもしれません。
 いずれにせよ、七不思議にまつわる今なお現存する痕跡もあるので、これらのお話しをかみしめながら正法寺を見学すると、また別 の魅力が発見できるかもしれません。一度、お出かけ下さい。


(1)飛龍観音
宝物庫にあるこの観音様の掛け軸は、曹洞宗の禅僧で著名な画人としても名を馳せた雪村の作と伝えられています。この飛龍観音にお祈りすると、どんな日照りの時でもたちまち雨が降ったとされ、別 名「雨乞観音」としても知られています。
(写真提供:岩手県立博物館)



(3)児なきの池
その昔、ある母親が子供を育てられなくなって、7月15日の夜に寺内の池に子供を捨ててしまいました。それから毎夜、池から悲しい子供の泣き声が聞こえるようになり、不憫に思った和尚は、子供が成仏できるよう読経したところ、それ以来泣き声が聞こえなくなったと言われています。

  (2)八つ房の梅
かつて、本堂前に房が八つある珍しい花を咲かせる梅の木がありましたが、枯れてしまい今では見ることができません。この梅の木の由来は、正法寺をはじめた和尚が水沢の姉体を通 った際、満開の八つ房の梅の木を見つけました。和尚は、その株を分けてもらい本堂前に植えました。正法寺の「大梅拈華山円通 正法寺」の名の起こりと言われています。



(5)片葉の葦
本寺の御開山の愛馬が亡くなり埋葬した後、その周囲に生い茂っていた葦の葉があたかも馬のたてがみのように片方だけの葉となりました。

 

 
(6)文福茶釜
昔々、茶席などでお湯を沸かしていたこの茶釜は、お湯を汲んでも汲んでも減らず、どんどんお湯が沸いたと言われています。それが、福を招く茶釜として珍重され、今日まで語り次がれてきたと言います。

(4)虎フの竹
境内の竹林に虎のフ点模様の竹があり、他に類を見ない竹として珍しがられています。
   
(7)慕弥の扇
の扇には「伊勢松坂扇屋怪談」という言い伝えがあります。それによると、昔、奥州安達郡の田村藩士亀井辰治郎という文武両道に優れ、たいそう美しい若者がいました。ある日、村人に誘われ辰治郎はお伊勢参りに出かけます。その帰り、みやげを買おうと立ち寄った松坂の扇屋の娘お鶴から「ほやの扇」といって、扇を手渡されました。しかし、同行者がこれをねたみ「ほやの」は「ほいと(乞食)」の意味だと嘘を教えられ、これに怒った辰治郎はお鶴を手討ちにしてしまいます。ところが、後で「ほやの」が「お慕いしています」という意味だったことを知り辰治郎は自責の念にかられ、お鶴の位 牌と祝言をあげます。辰治郎は、毎日写経をして霊を弔っていましたが、お鶴が亡霊となって辰治郎の前に現れ二人の間に子供が生まれます。そして、お鶴はその子を出家させるよう頼むと消えてしまいます。その子は、泣き声がまるで経文のようだったと言いますが、やがて大本山総持寺二代住職の峨山紹碩禅師に引き取られ育てられました。その子は大変聡明に育ち、正法寺開山無底良韶禅師となられました。

平成17年10月の完成を目指して 本堂の保存修理が始まりました
 第一期工事の惣門、庫裡、鐘楼堂の保存修理が完了し、いよいよ平成13年1月から、第二期工事として本堂の保存修理が始まりました。
 長年の風雪などにより本堂は、基礎石が割れ山側に傾き、さらには屋根のカヤが一部なくなり雨漏りするなど、老朽化が進んでいます。
 そこで、正面約35.4m、側面21m、高さ約28mの建物全体をジャッキによって1.5mほど持ち上げ、基礎石の補修と腐った柱(足元部分)を修理します。その後、屋根や軒先を解体し、順次補修工事や組み直し工事を行い、屋根のカヤを葺きます。
 部材の取り替えはできるだけ最小限にとどめ、また壁土なども大部分は解体した壁土を再び使用し、正法寺本堂を構成している本来の物を活かせるよう慎重に修理します。
 およそ4年10カ月の歳月と、約10億円の巨費を費やし行われる今回の「正法寺・平成の大修理」は、正法寺の歴史の1ページとして刻まれることでしょう。