小さな発見を
楽しみながら巡る、
蔵並みの続く路地裏


 奥州藤原氏の時代から近代に至るまで、歴史が折り重なるように今もまちのあちらこちらにその片鱗が見え隠れする江刺市岩谷堂界隈。
 このまちを散歩する楽しみは、小さな路地へ入り込んでみることです。整然と続く土蔵群や小さな祠(ほこら)など、いつもと違った街の表情を発見することができ、旅人になった気分を味わえることでしょう。また、町中にはとてもおいしい食事を楽しませてくれる店が多いので、お昼時を狙って訪れるとよいかもしれません。



 江刺市役所を出発し、大通り公園を横切り中町方面へ歩いていくと、まず蔵の多さに気付くことだろう。市街地には、百とも二百とも言われる土蔵が点在している。それは、藩政時代以前から岩谷堂が三陸方面と奥州街道、また北上川による舟運などの交易の拠点都市だったことに起因しているのだという。その証拠に、「六日町」や「八日町」といった市にちなんだ地名が今も残っている。
 また、これらの土蔵が今も現役で立派に活躍しているから驚きである。しかも、それらは喫茶店や料亭などの飲食店、またギャラリーなどといった本来の蔵の用途ではなく、今風の使われ方をしているところが興味深く、その門を開いてみようかという衝動にかられたりする。
 六日町の商店街から館山への坂道を登ると、さほど急な坂でもないのに息がはずみ、ようやく坂道に慣れてきた頃、館山頂上の館山史跡公園に到着する。ここは、かつて藤原三代の黄金文化を築いた藤原清衡とその父藤原経清が居住した館跡という。往時を偲ぶ痕跡は微塵(みじん)もないが、木立を吹き抜ける風が古人(いにしえびと)の悲運を嘆いているかのようだ。
 館山史跡公園から、「夢乃橋」を渡る。橋の上からは、江刺市街が一望でき、その反対側には「えさし藤原の郷」を臨むことができる。向山公園を下り、NHKラジオ放送「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」のモデルとなった旧岩谷堂共立病院(明治記念館)を訪れた。木造四階に塔屋を配したモダンな建物が人首川のほとりに美しくそびえている。辺りが夕焼けに染まりはじめたその時、あの「とんがり帽子」のメロディが流れてきた。まことに、情緒あふれる小さな旅である。


■監  修/阿部和夫
■参考文献/ 胆江の地名と風土[阿部和夫・佐藤英男・宍戸敦 共著]
      江刺市史[江刺市史編纂委員会 編集]

中善観音
(レンガ造りの二重蔵)

およそ300年前の正徳元年に京都で彫刻されたといわれる観音様があり、このレンガ造りの倉庫の中に安置されています。
秋葉神社

文政5年(1822)に静岡県の秋葉神社を勧請したといわれる神社。大火が多かった岩谷堂では、旧正月24日の祭日に神輿が町内を練り歩く町内最大のお祭りが催されていました。それが、今では「江刺甚句まつり」として、5月3〜4日にまちを挙げて盛大に開催されています。
中町商店街

蔵のあるまちづくりを進めている中町商店街は、表通りはすっかりきれいに整備され、「黒壁ガラス館」や「キンコン館ぴーちくぱーく」などの観光施設もでき、観光客が訪れるまちになりました。
蔵前通り

別名「親不孝通り」ともいわれ、土蔵を利用したスナックや飲食店がずらりと並ぶ、ユニークな通りです。自動車が通れないのも、好感がもてます。
六日町

六のつく日に市がたったといわれる「六日町」。江刺市には、この他にも「八日町」「一日市町(ひといちまち)」といった、市にちなんだ町名が多く見られます。
館山史跡公園
ここは、かつて藤原経清の砦館で、経清の子清衡が誕生した館跡と伝えられています。藤原経清は「前九年の役」で、妻の父である頼時と共に源頼義の朝廷軍と戦い、厨川の柵で敗死しました。そして、清衡は「後三年の役」で清原氏に勝利し、生誕の地江刺に戻り奥羽の覇者となりました。清衡は嘉保年中(1094年頃)平泉に居を移し、平泉藤原源氏の始祖となりました。
夢乃橋
人首川
(ひとかべがわ)
およそ1200年の昔、坂上田村麻呂は大和朝廷の命を受け蝦夷征討のため大軍を率いて奥州に攻め下り、延暦20年(西暦801年)、蝦夷の大豪族大墓公阿弖流為を討伐しました。しかし、阿弖流為と一緒に朝廷と戦っていた弟の大武丸の子「人首丸」は、この川の上流にある米里(旧人首村)の大森山まで逃げ延び蝦夷独立のため、命賭けで抵抗を続けました。人首川は、人首丸にちなんだものと言われています。
明治記念館

明治7年、水澤県の西洋医学の拠点として建設された「旧岩谷堂共立病院」。明治11年頃まで使用され、その後は役場として使用されました。

[Vol.19 INDEX]