牡丹型吸椀(寒牡丹 蒔絵)


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謎に包まれた
「増沢塗」の起源

 増沢塗の里「増沢地区」は、衣川村役場から北股川を上流に遡り、大平を過ぎたところにあります。今では無人の地区となっていますが、かつてここは衣川村最古の集落と言われ、古くから仙北街道を軸とした秋田と岩手を結ぶ交通の要衝でもありました。
 この増沢地区は、良質の漆器を製造する産地でした。その起源は、はっきりとは分かっていませんが、廃藩置県の行われた明治4年(1871)、秋田県稲川町の川連漆器職人だった沓沢岩松が増沢に招かれ、漆器産業を起こしたことがはじまりとされています。
 また、一説には増沢では延暦年代から安倍氏、さらには藤原氏の時代と、仏具や武具などの漆製品の製造が行われていたとされています。中でも藤原氏の時代、漆の産地として、また漆工芸の里として平泉の黄金文化を支えたとも伝えられていますが、その確証はありません。
   

 
  隆盛を極めた
「増沢塗」の里

 沓沢岩松が移住してから、増沢ダムが完成する昭和30年代まで、増沢地区では盛んに漆器がつくられていました。増沢地区で製造されていた漆器は、主に冠婚葬祭用に使用されるお膳、お椀などの食器類でした。その昔、祝儀や不祝儀の際は、どの家庭でも自宅でお客様を振る舞いました。その際に使用する厖大な量の漆器がどうしても家庭では必要であり、一生懸命働いて買い揃えたと言われます。そのため、漆器のお膳はその家庭の豊かさを表す象徴でもあり、とても大切な家財だったのです。
 漆器職人たちは、一年中漆器をつくり収穫が終わる頃になると、家々を一軒一軒回っては、自分で作った漆器を売り歩きました。やがて、漆器産業は盛んになり、増沢地区外にも売り歩くようになっていったのです。
 ところで、増沢地区でなぜ漆器産業が発達したのか。それには、幾つかの条件があります。まず第一に、漆器の材料となる原木が豊富にあり、またそれを使用して木のお椀などをつくる木地職人がいたこと。次に、漆がとれたこと。しかし、漆は当時でも必要量を十分まかなうだけの量はとれなかったようで、中国産やその他の漆を併せて使っていました。そして、適度な湿度、澄んだ空気などの環境が漆器製造に適していたこと。増沢地区は後川と前川の合流点にあり、川霧がよく立つ地域でもありました。このように、漆器製造に適した条件が重なり、増沢地区は漆器製造の産地として発達していきます。沓沢岩松が増沢を訪れる前年の明治3年、6軒で63人だった集落は、昭和23年には56軒で487人まで増えました。


 
【水車式木地工場】
増沢地区内には、水車を動力とした木地挽工場がありました。


漆器製造の様子
  伝統が途絶えた増沢塗
 昭和22・23年のカスリン・アイオン台風被害の教訓による北上川の洪水対策の一つとして、昭和39年に完成した増沢ダム建設に伴い、ほとんどの住居が移転。その後わずかに人々が暮らしていましたが、昭和50年の地滑り災害によって壊滅的な被害を受け、増沢地区の長い歴史を閉じたのでした。
 増沢ダム完成後の増沢塗は、職人が方々へと移転したため、実質的に産地形成を成さなくなりました。現在、増沢出身で、漆器職人として働いている人は、3人だけとなりました。
 生活の中から漆器が次第に遠のいている今、増沢漆器もまた時代の流れの中で伝統の灯を消そうとしています。
 かつて、衣川の山奥に漆の産地があり、そこで多くの人々が漆器製造を生業として暮らしていたこと。私たちは、その事実を胸に深く刻んでいつまでも忘れないようにしたいですね。
 

増沢地区全景
(昭和28年頃)

■水没以前の増沢地区の様子  
※画像をクリックすると拡大図を表示します。