水沢市と競馬との関わりについて調べてみると、驚いたことに900年近くも歴史を遡ります。
 時は文治六年(1190)、藤原家景という人が奥州の留守職として水沢に着任しました。家景は、塩釜神社を深く崇拝しており、水沢に社殿を建立し神事を執り行いました。中でも7月10日の祭日には、流鏑馬(やぶさめ)の式と馬術の上達を目的とした、競技並びに走争等を行ったといいます。これが水沢競馬の起こりとされています。
 祭典はその後も続けられ、明治時代には駒形神社の「花競馬」という形で引き継がれました。そして、明治34年、競馬法の改正に伴い、水沢公園の南側に円形の競馬場(一周約500メートル)が設けられ、胆沢郡の産馬組合が主催して、春秋二回競馬が開催されるようになりました。この頃は競馬といっても、いわゆる勝馬投票券を売った中央競馬とは異なり、駈歩(かけあし)・騎乗速歩(きじょうはやあし)・繋駕速歩(けいがはやあし)などの技術競技が主で、優良馬育成を目的とするものでした。水沢競馬は全国にその名が知れ渡るほど年々盛大になっていきましたが、太平洋戦争によって一時中断。再開されたのは、終戦直後の昭和22年のことでした。  
 胆江地方は良馬を産出する地方としても古くから知られ、藩政時代には主に岩谷堂の「馬市」で良馬(※1)が売買されていました。やがて馬市は奥州・仙北・盛の各街道の分岐点としての交通の要衝、水沢へと移り、袋町や立町がその中心となりました。明治天皇の料馬(※2)として名高い「金華山号」は、立町の馬喰佐野善兵衛が鬼首(現宮城県鳴子町)から二歳駒を買い求め、大林寺の厩で飼育していたのが発端となっています。これが水沢県庁の役人の目に留まり料馬として送り出されたのです。この他にも、競走馬をはじめ数多くの名馬を世に送り出しています。水沢をはじめ胆江地区の各所には駒形神社が祀られ、水沢周辺の供養碑に馬頭観音が多いのも、これらの歴史と関連があると言えそうです。
 水沢競馬場は、駒形神社周辺を都市公園として整備するため、昭和39年3月、北上川のほとり「杉ノ堂」に移転されました。
 古くから、馬と水沢のまちが密接な関係にあったという郷土の歴史を、水沢競馬場はしっかりと今日に受け継いでくれていると言えるのではないでしょうか。

※1 良馬…よい馬。優れてよく走る馬  ※2 料馬…ある目的に使用する馬

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Illustration/嶺岸弘行


■監  修/阿部和夫
■参考文献/「岩手県南近世時事物語(斉藤太郎編)」

「水沢公園(駒形神社)・水沢競馬場」
国道4号「太日通」交差点から、国道397号を大船渡方面へ向かう。北上川に架かる「小谷木橋」を渡る手前、右手に水沢競馬場がある。また、「太日通」交差点を左折し、市街地に入ると、昭和39年に移転するまで競馬場があった水沢公園(駒形神社、高野長英記念館、陸上競技場等)がある。

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