牛との関わりの歴史は、なんと2万年も前から!?
 1927年、西磐井郡花泉町から野牛(バイソン)の骨の化石が発掘されました。この発見は、約2万年もの太古から岩手県に野牛が生息していたという事実を私たちに教えてくれるものでした。さらに野牛の骨と共にナウマンゾウや、オオツノジカなどの獣骨化石に混じって原始牛(現在の家畜牛の祖先と言われているもので、日本のオーロックスとも呼ばれる)の骨の化石も発掘されました。
 一方、藩政時代から昭和の半ば頃にかけて、岩手では馬や牛の飼育が盛んに行われており、主に農耕や荷物運搬の労働力、または肥料生産用として、家族のように大切に扱われてきました。
 これらの歴史からもわかるとおり、岩手の地と牛との関係は遙か2万年も前から続いていたのです。言い換えれば、岩手の風土が牛の生息に適した環境だったからこそ、そのような関係が続いてきたということが言えるでしょう。前沢牛の名声は、何も突然に誕生したのではなく、背景にこのような岩手の風土があってこそのものだったのです。

強豪揃いの市場に参入し、見事短期間で全国ブランドに!
 前沢牛は、昭和44年に初めて世に送りだされ、51年には通常出荷で東京食肉市場で一番の高値をつけました。さらに全国規模の牛枝肉コンテスト「全国肉用牛枝肉共励会」において、昭和61年・62年、さらに平成2年から5年まで4年連続で通算6回もの名誉賞を受賞したことによって、その名を不動のものとしたのです。
 それでは、なぜ前沢牛が老舗と言われる松阪牛や近江牛などの強豪を相手にわずか30年程で今日に至ったのでしょうか。
 胆江地区は、牛の成育に合った冷涼な気温、おいしい空気、そして北上川の伏流水を主とする豊富できれいな水などの自然環境の条件が整っています。
 また、雌牛は島根系統の牛を、種牛は兵庫県但馬牛などを導入するなど、優秀な雌牛と種牛の確保も精力的に行っており、すぐれた子牛生産にも取り組んできました。全国の肉牛産地の多くが子牛を他の地域から買い付けて肥育するのに対し、前沢牛の産地では肥育農家を上回る繁殖農家があり、種付けから肥育まで地域一貫体制で取り組んでいます。この恵まれた自然環境と日々の努力が実を結び、全国に名が知れ渡るほどの牛の産地になったのです。

循環する環境が、優秀な牛を生み出す原動力に
 そして、もう一つ重要なポイントが、牛のえさです。胆江地区は、旨い米をつくる県内屈指の米どころでもありますが、お米を生産する際にできる稲わらがじつは大切なのです。これは、牛のえさとしてはもちろん、清潔で心地よい寝床としても欠かすことができません。稲わらが豊富にとれ、排泄物となった牛糞や寝床に使用した稲わらは再び田んぼに戻り、肥料として役に立つ。この米づくりと畜産の関係がうまく共存している環境が、優秀な牛の肥育には重要になってくるのです。

牛への愛情こそが、前沢牛の肉質のよさの秘訣
 古くから岩手では、牛や馬は農業のパートナーとして農家に欠かすことのできない家族であり、南部曲屋に代表されるように一つ屋根の下で大切に扱われてきました。
 今日の農業は化学肥料や機械化などによって、牛や馬などの労働力を必要としなくなりました。しかし、前沢牛を育てている農家の方々は、今でも牛を家族のように慈しみ、暑い日には扇風機を回し、寒い日には稲わらで囲ってやり、惜しみない愛情を注ぎ大切に育てています。市場へ牛を送り出す日には、我が子を手放すようで身を切るような想いだと、肥育農家の方は言います。
 つまり、前沢牛が日本一になった本当の秘訣は、牛を育てている方々の深い愛情と日々の努力の賜なのかもしれません。それは、胆江地区の風土と歴史が育んできた、決して忘れてはならない私たちの郷土の心でもあるのです。