江戸時代以降、酒田湊は酒田と内陸を結ぶ最上川舟運や西廻り航路の整備によって賑わい、最上川流域の年貢米や紅花などの物産が京・大坂・江戸に運ばれた。

現在も利用される山居倉庫

北前船図
奥羽線の新庄開通に11年遅れて、1914年酒田線(陸羽西線)新庄〜酒田間が開通した。各地の駅周辺において新しい町が形成されたが、一方、鉄道の発達とともに最上川舟運は衰退した。

蒸気機関車

酒田駅(昭和8年)
六十里越街道は、平安時代に出羽三山への参詣道として開かれたのがはじまりと言われ、内陸から庄内を結ぶ六十里越街道は行者や修験者であふれていた。街道沿いの集落は、参詣者相手の商いで賑わいを見せた。
初代県令三島通庸(みちつね)は六十里越街道を庄内−内陸を結ぶ道路の整備を試みたが、この施策は実現しなかった。その後、山形県によって明治32年に工事着工、36年に竣工し、大正9年に県道六十里越街道に指定。昭和9年に改修工事が完了し、旧112号の姿となった。昭和28年に2級国道112号に指定。
旧国道112号の交通量はごく僅かであったが、昭和41年度の工事着工とともに交通量は増加した。(月山道は昭和56年7月17日全線開通)
最上川の河口港として発展してきた酒田港だが、流入土砂が水深不足を引き起こし、酒田港の利用頻度は低下。昭和5年から酒田河川国道事務所(当時、最上川改修事務所)直轄事業で酒田港と最上川本流の分離工事が行われ、航行の安定化が図られた(昭和7年完成)。

大正以前の酒田港

現在の酒田港
戦後、重要港湾に指定され(昭和26年)工業港として繁栄してきた酒田港だが、貨物船の大型化に伴い、狭隘となったため、北方に新港が建設された(昭和49年開港)。
平成7年には『釜山港定期コンテナ航路』も開かれ、酒田港におけるコンテナ取扱量は順調に伸びており、平成12年7月には国際ターミナルも供用された。
着工から12年、総事業費460億円で、昭和56年7月17日全線開通。(L=30.9km 酒田工事管内L=18.5km) 。
鶴岡−山形間が、40分・4kmの短縮。 庄内−内陸の地域間移動も着実に一般国道112号に転化。
全線開通から約20年が経ち、構造物の傷みが目立ち始めたため、平成10年「月山道路リフレッシュ集中工事」を開始。平成12年9月に完工し、より安全性、走行性、耐久性に優れた月山道路として生まれ変わった。

橋梁工事

トンネル内部
昭和12年〜14年にかけて、海岸沿いの厳しい地形をぬって工事が行われた。
吹浦バイパスは、昭和49年に事業化、総事業費106億円を費やして平成11年11月6日に全線供用。吹浦バイパスの開通により、庄内地域と秋田県南部地域との交流が促進された。

吹浦バイパス終点から起点を望む
南野バイパス、昭和57年に事業化し、総事業費44億円を費やして平成12年3月17日に全線供用。南野バイパスの供用によって、車両のスムーズな走と交通安全が確保され、旧道沿線住民の生活環境が大きく改善された。

南野バイパス起点部から終点部を望む
山形県内第2の空港として、平成3年10月1日に開港(滑走路2,000m)。
一県一空港主義が不文律と言われるなか、署名運動に22万6000人(庄内の人口の約7割)が参加するほどの地元の熱意や、完全な民主導による熱心な陳情活動が実を結び、全国初の同 一県で二つ目の空港の誕生となった。
山形空港が、山形新幹線の開業で利用客が減少傾向であるのに対し、庄内空港の利用者は着実に増加。現在は東京便3往復/日、大阪便1往復/日、札幌便1往復/日が運行。
庄内空港の貨物取扱量(t)(積荷)は、年々増加している(H4→H10 5.73倍)。
品目別では、イチゴやダダチャ豆に代表される果実・野菜等の生鮮食品が70%を占め、空路輸送のメリットを生かし、大都市圏に新鮮な食材を提供している。
平成9年10月30日に庄内地域初の高速道路、東北横断自動車道酒田線庄内あさひIC〜 酒田IC(L=31.3km)が開通した。

開通当時の庄内空港IC付近