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       出張所情報

       出張所のあゆみ

       管内情報


出張所情報 

   十和田国道維持出張所

      所在地
〒034−0001 青森県十和田市三本木字北平147−475

      TEL
0176−23−7138・7139

      FAX
0176−24−0129

      お問い合わせはこちら

       

    当出張所は、国道4号の一次改築担当として昭和33年以降、道路整備の推進を通じて地域の方々と一緒に地域づく
   りに取り組んできました。行政と地域の方々がお互い協力しあって初めて「より良い・使いやすい・安全な施設」が出来
   ると考えております。
   
    今後とも「誰もが安心して利用出来る道路環境整備」が必要だと思っておりますし、そういう道路行政を進めてまいりた
   いと思っております。
    また、地域の方々からの様々なご意見等もお聞きしたいと思っておりますので宜しくお願いします。

     



出張所のあゆみ
S33.06.01 南部国道工事事務所の十和田出張所が、現十和田市西三番町の県土木事務所庁舎の一部を借上げ設置され、国道4号の三戸町から野辺地町までの改良舗装工事等の一次改築事業に着手。
S33.12.05 現在の十和田市西十二番町に出張所新築。
S36.01.01 十和田出張所が南部国道工事事務所(事務所は当時の岩手県二戸郡福岡町に所在)より、青森国道工事事務所へ所属換え。
S38 国道45号が直轄編入となる。
S39.04.01 十和田市三本木字北平147(現在地)に出張所新築。
S42 国道4号野辺地バイパスの舗装工事を最後に、着工以来10年間で一次改築を完了。
S43.04.01 出張所の名称が現在の十和田国道維持出張所に変更。
S43.05.16 北海道十勝沖地震発生。県内各地で多大な被害を受ける。
特に当出張所管内の国道は被害が多く、復旧に2年を要した。
S47.12 国道4号三戸バイパス(三戸町豊川〜川守田L=3.4kmを竣工)が部分開通。
S53.10 同上バイパス(三戸町川守田〜南部町沖田面L=2.96kmを竣工)合計6.36kmが全線開通。
S55.11.12 国道4号五戸バイパス(五戸町扇田〜上新井田L=4.49kmを竣工)が暫定2車線で開通。
S61.08 国道4号十和田バイパス(十和田市三本木〜主要地方道三沢・十和田線L=2.48km)が一部開通。
S62.08 同上バイパス(主要地方道三沢・十和田線〜十和田市洞内L=4.82kmを竣工)合計7.3kmを部分開通。
S63.08 御幸橋(奥入瀬川)架け替え。
H2.10.26 集中豪雨により、国道4号は各所で法面の崩壊等多数の被害を受けた。
特に名川町剣吉は切土法面崩壊により、全面通行止めの大きな被害となった。
H3.12 十和田市以北(野辺地町まで)の除雪体制の強化を図るため、坪除雪ステーション完成。
H6.12.28 三陸はるか沖地震発生。
震度6の烈震により、特に八戸地方が大きな被害を受け、当出張所管内国道4号の三戸町目時、五戸町浅水、十和田市伝法寺〜大窪においても舗装の亀裂、陥没等多くの被害を受ける。
H11.10.28 集中豪雨により、国道4号は各所で法面の崩壊等多数の被害を受けた。
特に三戸町川守田及び名川町剣吉は斜面崩壊により、全面通行止めの大きな被害となった。
H12.08.31 坪除雪ステーションに融雪剤倉庫が増設される。
H13.10.31 名川町剣吉地区に融雪剤倉庫が新設される。
H13.12.13 国道4号十和田バイパス(十和田市伝法寺〜十和田市三本木L=5.0kmを竣工)合計12.3kmの完成(開通式)により暫定2車線で全線開通する。
H14.04.01 バイパスの開通により十和田市内(十和田市伝法寺〜十和田市洞内)の旧道の管理が県及び市に移管される。
H17.11.18 同敷地内に新庁舎新築。同28日から新庁舎での業務開始。
H20.03.24 国道4号七戸バイパス(七戸町笊田川久保〜七戸町荒熊内L=2.9kmを竣工)が一部開通。
H22.11.24 国道4号七戸バイパス(十和田市大沢田〜七戸町笊田川久保L=2.8qを竣工)合計5.7qの完成により暫定2車線で全線開通する。
H25.03.24 国道45号上北自動車道上北道路(六戸町犬落瀬〜東北町大浦)L=7.9kmを、自動車専用道路として暫定2車線で開通する。
※六戸JCT(第二みちのく有料道路分岐点)〜六戸三沢IC〜上北ICにて県道と接続。 
H26.03 上北道路(東北町大浦地区)に上北除雪ステーションが新設される。
H27.04.01 国道4号七戸バイパスに並行する現道区間(十和田市大字大沢田〜上北郡七戸町字荒熊内)の管理が青森県、十和田市及び七戸町に移管される。
  


    管内情報

藩境塚(平内町と野辺地町境)

  江戸時代に南部領と津軽領の境界の目印として奥州街道沿いに築かれた塚です。
  塚の底面直径はおよそ10m、高さは3.5mほどで、南部と津軽とそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから「四ツ盛」とも呼ばれています。
  この塚と塚の間を流れる二本股川と烏帽子岳山頂を結ぶ線が境界とされていましたが、山中の境界があいまいだったことからたびたび論争がおこっています。

  盛岡・弘前両藩のおおまかな境界は、文禄4年(1595)に定められました。
  塚の築造年代は明らかではありませんが、正保2年(1645)の津軽領国絵図には藩境塚が記されていることから少なくともそれ以前から築かれていたものと思われます。

  藩境にある馬門村と狩場沢村にはそれぞれ番所が置かれ、旅人や物資の出入りを取り締まっていました。なお、馬門村は江戸時代をとおして盛岡藩領でしたが、狩場沢村は、はじめは弘前藩領、明暦2年(1656)に黒石津軽氏領となり、文化6年(1809)には黒石藩の成立とともに同藩領となりました。
                                                (野辺地町役場ホームページより)
 
馬門御番所 高札(手形がないと、火薬等は
持ち出すことを堅く禁ずる)
「これより西北は津軽本次郎領分」
 
「これより東南は盛岡領」 藩を挟んで四基の藩境塚が現有している例は全国的にも大変珍しいそうです。

野辺地戦争戦死者の墓所(野辺地町)

  鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争はしだいに戦いの地を北へ移していきました。
  東北諸藩は新政府側から朝敵とされた会津藩・庄内藩の赦免嘆願を目的に奥羽列藩同盟を結成し、和平的解決を図ろうとします。しかし、各藩の思惑は一致せず、同盟が新政府側への対抗色を強めていくにつれ離脱する藩が相次ぎました。

  北奥の諸藩でも藩論が分かれましたが、結果的に盛岡藩は同盟を維持、弘前藩は新政府側支持の立場を明らかにします。八戸藩は同盟に参加したものの、藩主信順(のぶゆき)が薩摩藩8代藩主島津重豪(しげひで)の子であったことから微妙な立場にありました。しかし、宗藩である盛岡藩の強い要請により、藩兵を野辺地に派遣し弘前藩への備えのため盛岡藩兵とともに藩境の守りを固めました。

  明治元年(1868)9月22日夜、新政府軍に盛岡藩討伐を命ぜられていた弘前藩は勤皇のあかしを立てるため野辺地へ出兵しました。弘前・黒石藩の津軽軍180人は3隊に分かれ、本隊は馬門村に火を放ち、さらに野辺地村に進み、他の1隊は山道をとおり野辺地代官所付近まで進攻してきたことから南部軍は応戦しました。
  戦いは夜明けまで続きましたが、津軽軍は49名の死傷者を出し退却しました。

  翌年、弘前藩では戦死者のうち27名の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てました。
  墓石の裏面には「明治元年戊辰九月二十三日討死」とあり、近代日本国家建設までの激動をしのぶことができる本州最北の戊辰戦争に関する史跡です。
                                                 (野辺地町役場ホームページより)

日本中央の碑歴史公園(東北町)

  昭和24年6月24日、当町(当時甲地村)の赤川上流で高さ1.5m程の自然石に「日本中央」と刻まれた碑(通称:つぼのいしぶみ)が発見されました。征夷大将軍坂上田村麻呂が刻んだという伝説が残っていますが、その後の研究で、坂上の後任で蝦夷征伐に来た文室綿麻呂が刻んだ説が有力になっています。

  「日本中央」の「日本」は「ひのもと」と訓じて東北地方を指す言葉であったと思われ、中央政府の支配の及ばない地、それが「日本」であり、政府の威令が浸透すると共に日本の地域も次第に狭められる事になりました。

  なお、明治天皇が東北巡業の際にこの碑を探索した記録が残っていますし、西行、源頼朝、岩倉具視等がこの「つぼのいしぶみ」にちなんだ歌を残しています。

                                                          (パンフレットより)

七戸城跡(七戸町)

  鎌倉幕府滅亡の際、幕府打倒に功績のあった南部政長公に下賜されました。以来、この地は八戸根城と共に南部氏の一大拠点となり、特に津軽地方に対する備えとして重きをなしました。江戸時代に南部氏が盛岡に移った後も七戸は南部藩直轄となり、明治2年には南部直方公が七戸藩主としてこの地に藩庁を置きました。
  面積は22ヘクタールにも及び、要害かつ雄大な城であったと伝えられています。

東京ドーム約5個分の広さ。一部は城跡公園として親しまれています。 

「奥州街道」松並木(七戸町)

  この松並木は、徳川幕府により「一里塚」が築かれ、街道の両側に防風・防雪用の日陰をつくるため松を植えたのが始まりといわれています。時の奥州街道は、鹿角産の御用銅、福岡・三戸・五戸・七戸産の御用大豆を大阪へ送るため、野辺地港まで運ぶ人牛馬で賑わっていました。
  現在、国道沿いに見られる松並木は、明治初頭に後植えされたものですが、昔時の面影を偲ばせています。

奥州街道とは、江戸時代の五街道の一つ(他に東海道、日光街道、中山道、甲州街道)。
江戸時代の交通網の基幹を呈し、多くの大名が参勤交代に利用したといわれています。

土手山のケヤキ(十和田市)

  当出張所のすぐ近くに土手山神社があり、その中にケヤキの大木がそびえています。このケヤキは松前藩主が参勤交代の折りに植えたものと言われています。相坂から洞内までの奥州街道沿いの風雪の強くあたる箇所に高さ七尺、根通り八尺、上幅二尺五寸の土手を築き松や雑木を植えたと言われています。

樹齢300年、樹高26m、根元の周囲は10mあります。 

                たまや
国重要文化財 南部利康霊屋(南部町)

  1632年(寛永9)申の年に、南部27代太守利直公が、四男利康の死を悼んで創建されました。
  江戸時代初期の豪華絢爛なる桃山建築の様式がそのままに取り入れられ、華麗なること東北随一と賞されています。

  昭和42年から3年にかけ、外回りの大修理をし覆堂を改築しましたが、それによって分かったことは、用材は全て木曾産の檜であり、しかも最高級の用材ばかりが選ばれていたことです。領内の鹿角郡に金山が発見され、南部家の財力が最も豊かな時でしたので、金にあかしてこの用材を求めたことがうかがわれます。昭和28年11月14日、国の重要文化財に指定されました。
                                               (南部町観光協会ホームページより)

南部利康霊屋 覆堂

国指定史跡 聖寿寺館跡(南部町)

  聖寿寺館跡は、青森県南東部、奥州街道と鹿角街道の合流点付近、馬淵川沿いの交通の要衝に立地する、南部氏本宗家の室町時代から戦国時代の本拠地です。
  南部氏は甲斐源氏の支流で、南北朝期に勢力を伸張し、戦国時代に東北北部地方に覇をとなえ、東北地方を代表する武士団とされています。
  盛岡藩の史書では、聖寿寺館は14世紀末頃から南部氏の本拠地とされていましたが、1539年(天文8)に家中の内紛によって焼亡したとされ、創建期の記録もほとんどが伝承となってしまいました。
  しかし、町内には現在でも南部氏に関連する城館や藩主の墓、霊廟などの文化財が良好な状態で遺されているため、これら貴重な文化財の調査研究、並びに保存・活用を努め、失われた中世南部氏の歴史解明を目的として発掘調査他、専門的な調査が行われてきました。

  「史跡 聖寿寺館跡」は「聖寿寺館跡本体」のほかに、南部氏の菩提寺のある「三光寺地区」、氏神である「本三戸八幡宮地区」の3地区で構成しており、その歴史的重要性が認められ、平成16年9月30日に史跡指定を受けました。
                                               (南部町観光協会ホームページより)
聖寿寺館跡地 三光寺

三戸城跡(三戸町)

  名久井岳山頂を中心とする半径2kmの地域と、麓にある三戸町城山及び南部町諏訪ノ平の飛び地を含む1,076ヘクタールが名久井岳県立自然公園として、昭和31年10月に指定されました。
  城山公園は県立城山公園として、これまで多くの人びとの憩いの場として親しまれています。

  戦国時代、この地方を治めていた南部氏が、それまで居城としていた聖寿寺館(現南部町)を焼失し、この高台へ城を移して三戸城としました。
  その後、南部氏の居城は福岡城、盛岡城へと移っていきますが、三戸城は城代や代官が置かれ、大切にされてきました。

  今日でも石垣や堀跡など、往時を偲ばせる遺構が多く見られ、歴史ファンなど多くの人びとが訪れるほか、春は1,600本のサクラが咲き誇る青森県南随一のサクラの名所としても有名です。
                                                   (三戸町役場ホームページより)

桜の名所としても有名な城山公園 三戸城本丸跡地

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