菅江真澄の歩いた青森(津軽編)
 江戸時代、およそ200年余り前の青森を、くまなく歩いた旅人がいる。菅江真澄。青森を旅していた時代は、白井秀雄を名乗っていた。旅で出会った風土を書きとめ、絵に描く。その著作は『菅江真澄遊覧記』として知られている。
真澄と青森
  真澄が青森を歩くのは三度。一度目は天明5年(1785)、松前に渡ろうとして青森まで来るが、天明の大飢饉のため断念した。もう一度渡海を目指すのは、3年後の天明8年(1788)。前沢から奥州街道を北上し、松前街道を三厩まで歩き、宇鉄で船に乗る。
  三度目は、北海道から戻った寛政4年(1792)から秋田へ移る享和元年(1801)までの10年間。はじめ3年は下北に、のちの7年は津軽にいた。寛政 9年(1797)に藩校稽古館の採薬係となるが、2年で免職される。深山を歩いて隠し鉱山などを知りえたためか、津軽で書いた日記は藩に没収されて欠けて いる。享和元年、深浦から浜伝いに津軽を去った。
  このあと没するまでの28年を、真澄は秋田領内で暮らすことになる。津軽藩に日記を没収されたこともあって、青森を歩いた記述は秋田に比べて多くはない が、恐山の地蔵会、下北の小正月、三内丸山の土偶、津軽や下北のネブタなどについて、観たままを書いた。
旅の人生
  真澄は宝暦4年(1754)、現在の愛知県豊橋に生まれた。実家は菅原道真の家臣・白太夫の子孫だと言い、「春星散」という秘薬が伝わっていた。賀茂真淵の姻戚にあたる植田義方に国学を、尾張藩の藩医・浅井図南に本草を学び、図南の没後旅に出る。
  菅江真澄の人生は、旅のなかにあった。その過半を「みちのく」と「蝦夷地」に暮らす。旅の目的が、なんであったかはわからない。江戸時代が異国を意識しな ければならなくなる少し前が、真澄の生きた時代である。この200年の間に姿を変えた風景もあり、変わらぬ風土もあり、後世の者は彼の記述を基に自らの変 化を知ることができる。
民俗学の祖(おや)
  菅江真澄を広く世に知らしめたのは、柳田國男であった。柳田は真澄を「民俗学の祖」と呼んでいる。真澄の描写は同じ時代のほかの旅行記と異なって、土地の 人と同じ地平に立つ眼差しをもっていた。予め自分の知っている言葉に置き換えて解説するのではなく、その土地の言葉で土地の人の受け止め方に即して風物や 由来を語るから、民俗や歴史を考える上で第一級の貴重な資料となっている。
  菅江真澄は、初めに目指した北海道や、長く暮らすことになった秋田の旅について語られることが多い。しかし、ここ青森でも10年を暮らし、くまなくこの地 域の街道を歩いた。菅江真澄が出会った200年前の青森の風景と人々の暮らしを、みていくことにしよう。


 大間越の関所は、福寿草の咲く丘の上にあった。境明神から登ってくる峠道は、いまは草や竹に覆われて、かすかに獣道のような痕跡をとどめるだけだ。道のあったところに、関所の門の柱だけが、ひっそりと立っている。
津軽への第一歩
  天明五年八月三日(一七八五年九月六日)、菅江真澄はこの道を歩いていた。潮風に吹かれながら、左手に日本海を望み、その足取りは軽やかだったと思われ る。北海道を目指す、これが真澄の津軽への第一歩だった。この関所越えの道を「西浜街道」と言う。能代から北上して、大間越(深浦町岩崎)から津軽に入 る。深浦や鰺ヶ沢を通り、岩木山の北麓を回り込むように弘前の城下に入る。
  真澄が津軽への道に、矢立峠越えの羽州街道ではなく、大間越の西浜街道を選んだのは、ごく自然なことであった。当時は北前船の湊街を結び、言わば津軽の表玄関だったからである。
  白神岳の登り口にある黒崎(深浦町岩崎)で、真澄は津軽で初めての宿を請う。浜辺に並ぶ家々のすぐ裏に碧深い森が迫っている。この黒崎で真澄は、海士が塩を造るのを見た。「波を汲んで筧(かけい)に流し、貝釜で塩を焼く」。貝釜というのは、割った貝殻を粘土に混ぜて練り固めた釜のこと。塩を国が専売するようになって、この土地の塩焼きは見られなくなったが、江戸時代は海辺のいたるところで塩づくりが行われていた。
  この浜伝いの道は、岬を越えるたびに、白砂の浜あり、浪に洗われた岩の並ぶ磯があり、そして日本海に吸い込まれるように夕陽が沈む、美しい景色が続く。


嵐に遭い赤石川で足止め
  八月六日、関(深浦町)のむらで真澄は、「大雨で沖の船が柱ばかり残して沈んでしまった」という話を聴いた。髻(もとどり)を切って髪の乱れたまま磯辺を漂い歩く男も見た。船が沈みそうになると髷(まげ)を切って願掛けするという風習が、北前船の水夫(かこ)たちにあった。深浦の円覚寺には、命が助かって奉納した髷額が残っている。
  やがて赤石川に辿り着くと、川の水かさが増して渡ることが出来ず、足止めを食う。明くる日、この嵐で刈り終えて掛けた稲穂が風に飛ばされて田に倒れているのを目にする。畑のものも残っているものはない。男は嘆き、女は泣いている。「おととしの飢饉(けがぢ)よりひどい」と。おととし、天明三年は春から天候が不順で田畑が稔らず、津軽地方は大飢饉となった。この嵐のせいで作物が台無しになり、またあの二ノ舞かと思えば、人びとは恐ろしくもあったろう。
  なんとか赤石川を越えたのは八日。鰺ヶ沢の湊に着くと、ここでも幾艘もの船が沈んでいた。こうした惨状の中、真澄は津軽平野へと入り、弘前へ向かった。
 天明5年(1785年)、菅江真澄は西海岸から岩木山を回り込むように、弘前の城下に向かって歩いている。「南の雲の中よりみねのあらわれたるは、不尽(ふじ)見てもふじとやいわん、岩木山なり」。いよいよ津軽平野に足を踏み出した。いわゆる「新田」(しんでん)と呼ばれている地域である。

津軽の米蔵となる新田
  「新田」は、江戸時代になって新しく拓かれた田園だ。いまでこそ、見渡す限りの水田が広がっているが、もともとは沼地だった。この穀倉地帯が、津軽の米蔵となったわけである。
  ところが、岩木川下流の低湿地だった新田は、たびたび洪水に見舞われた。真澄が訪れたころも、安永7年(1778年)からこのかた、岩木川は毎年氾濫(はんらん)を繰り返している。天明3年(1783年)と明くる4年の2年続きの大飢饉(ききん)で、最も甚大な被害を受けたのも、この地域だった。
  真澄は、床舞(とこまい)(つがる市の旧森田村)で、叢(くさむら)に山と積まれた白骨を目撃した。聴けば、飢えて死んだ人の屍(しかばね)だと言う。天明3年の冬から明くる春にかけて、雪のなかに人々は倒れて死んだ。まだ息があったかもしれないが、往き交う者は死がいを踏み越えて通った。生きた馬を食い、木の根を煮て食い、野の犬も、果ては人の肉まで食べた、と言う。恐るべき惨状(さんじょう)だった。

お山参詣の人々に出会
  五所川原・板柳・藤崎を経て、弘前に着いた。笹森町に吉川神道の流れを汲む諏訪行宅を訪ねる。旧暦8月15日、笛太鼓を鳴らしながら、懺悔懺悔(さいぎさいぎ)と唱えて過ぎていく人々を見た。飢饉のただ中でも、人びとの豊作への祈りは、絶えることがない。
  ところで、真澄の時代、お山参詣は朔日(ついたち)山 のご来光を拝むというものではなかったらしい。旧暦8月15日、十五夜の日に行列が岩木山へ向かっている。岩木山のお山参詣がご来光を目指して登るように なったのは、じつはごく近年のことで、このころは旧暦8月朔日から十五夜にかけてだった。真澄の日記は、そのことを示す貴重な資料である。






お山参詣
海を渡るまで3年を待つ
  16日の猿賀の祭りへ行くという人に同行してお参りし、真澄が青森へ入ったのは8月18日であった。はるか沖には下北半島の釜臥(かまふせ)山、雲か波か分かちがたいところに北海道の松前も見える。この海を渡るのはいつの日になるだろうと占ってみれば、3年を待てと。
  案の定と言うべきか、明くる19日、「善知鳥(うとう)前の梯」(善知鳥崎に掛かっていた橋)を見に行こうと出れば、鍋釜を背負い、幼い子を抱えて来る男女に会う。飢え人となることを畏(おそ)れ、異郷へ行くらしい。このまま浜道を行けば飢えてしまうと思い、引き返して大豆坂・乳井を経て碇ケ関を越え、22日に秋田領に入った。大館から鹿角へ。蝦夷(えぞ)地へ渡ることを断念し、盛岡領や仙台領で期の熟すのを待つことになる。
すがえ ますみ
菅江真澄

1754〜1820。江戸時代の紀行家。本名は白井英二。30歳で旅立ち、北海道、南部・津軽・秋田と歩き、地誌を編む旅の途上、角館で病に倒れて没す る。享年76歳。人生の過半を旅に過ごし、日記『菅江真澄遊覧記』に書きとめた。自分の観念で解釈しない態度が同時代の紀行文との違いである。柳田國男に よって「民俗学の祖」と評された。