羽州街道 矢立峠〜碇ヶ関

羽州街道とは?

 羽州街道とは、江戸時代に整備された脇往還(五街道以外の主要な街道)の一つである。江戸から奥州街道桑折宿(現在の福島県)で左に分岐し、金山峠を越え、出羽国を縦断し油川宿(青森県青森市)に至る街道で、秋田市以北が国道7号にあたる。
 ちなみに国道7号とは、江戸時代の羽州浜街道(新潟−秋田)と羽州街道(福島−秋田−青森)の一部のことである。
 参勤交代で利用した藩は13藩あり、津軽藩・黒石藩もその一つである。また、宿場は58駅で、青森県には矢立峠から、碇ヶ関・大鰐・弘前・藤崎・浪岡・新城と各宿を進み、油川で奥州街道に結ぶ。

福島県桑折町役場撮影

奥州街道・羽州街道の追分
(左:町道4004線【羽州街道】、右:県道国見福島線【奥州街道】)

青森県(津軽)の羽州街道 矢立峠〜碇ヶ関

矢立峠

 矢立峠は、青森県(津軽国)と秋田県(羽後国)の県境にある峠で、出羽国秋田領と陸奥国津軽領の藩境である矢立峠は、羽州街道随一 の難所であったことは昔から知られている。
 津軽領を出て、湯ノ沢の峠下番所を経て古街道(羽州街道)は急な山道に入り、山道を登りきると、津軽藩主が江戸往還時に休息するための御休所(茶亭跡)があり、これを過ぎて陸奥国津軽と出羽国秋田の国境矢立杉跡に出る。
 矢立の杉があった由来により、この国境を矢立峠と称した。

 秋田と津軽境の矢立峠そのものが実際どの地点であったのか、今はその特定が難しくなっている。
 矢立峠は、「菅江真澄」、「伊能忠敬」、「吉田松陰」、「イサベラバード」、「明治天皇」も通った歴史の道である。
 江戸後期の勤王家の日記によれば、峠ふもとの陣場から四十八川と称する川を幾度も渡り、一丁ばかりで坂にかかる横木を足がかりとして峠に登ったという。峠には大きな木が一本、囲いの中にあって、それが
矢立の杉で藩の境としたそうだ。
 
また、英国人女性イサベラ・バード「日本で見たどの峠よりもこの矢立峠を誉め讃えたい」と言っている。孤独で堂々と、薄暗く厳かな樹木に感動したのは秋田杉の美林であったろうとされる。
 『秋田県土木史論』に、「旧道はとても険しくて拓き難く、西方の山腹に良線を得たり」とあることから、旧峠は下内川源流を詰めあげた東側にあり、以後、西方の
明治新道が開かれた。碇ヶ関から西に入った湯ノ沢温泉の手前にその古い峠道の案内板がある。
 「天絶険をもって二邦を隔つ」(
吉田松陰
 矢立峠は最果ての
津軽への入口である。 
 杉檜 天を掩いて 昼また暗し

矢立遊歩道(歴史の道)

 天正14年から明治25年まで利用されていた羽州街道。
 天然杉に囲まれた自然の中を道は通っている。国道7号から湯ノ沢温泉郷に入って車で5分のところが入口となっており、秋田県(矢立ハイツ)につながっている。

道の駅やだて(矢立ハイツ)駐車場脇にある
羽州街道への道

現在の国道7号矢立峠頂上(青森秋田県境)


国道7号相乗温泉付近から秋田方面を望む
峠下御番所跡付近の旧街道(平川市碇ヶ関)
上の番所、矢立峠番所、湯ノ沢番所ともいわれた。
写真奥が秋田方面。右側に進むと湯ノ沢温泉。
矢立遊歩道案内板
昭和37年9月竣工の「みかえり橋」と近くにある一里塚跡

碇ヶ関

 津軽藩は領内の主要道路を大道(おおみち)・脇道浜道に区分した。大道の羽州街道(碇ヶ関街道)が津軽氏の参勤交代路となるのは寛文五年(1665年)である。もっとも碇ヶ関の関所設置は天正期で、碇ヶ関から分岐する南部道は羽州街道開通以前から利用されていたが、対盛岡藩との関係もあり、羽州街道が幹道となった。この羽州街道を通る大名は弘前と黒石の津軽氏のみで宿の伝馬負担はあったが、休泊に御仮屋を利用したので、本陣などはなかった。
国道7号と国道282号の合流部
折橋御番所跡(中の番所)
羽州街道と津軽街道を示す追分石
国道7号と国道282号の合流部にある旧国道の橋と現在の追分橋

羽州街道の名残あるJR湯ノ沢駅付近
平川市碇ヶ関船岡にある石碑
舟岡御番所跡

碇ヶ関関所

 国道7号の矢立峠を青森県側に越えて最初に出会うのが平川市碇ヶ関(旧碇ヶ関村)である。その名の通り「」のある村で、野内(青森市)・大間越(深浦町岩崎)・とともに津軽三関の一つ碇ヶ関は、羽州街道で津軽へ入る表玄関で、その出入りの取り調べは特に厳しかった。
 矢立峠を越え北方へおりると、峠下の御番所が、湯ノ沢と碇ヶ関通りとが交差する付近にあった。小坂へ通じる分岐点には、中の番所である「折橋御番所」があり、さらに下流に「船岡御番所」もあった。
 中の番所から3キロほど進んで碇ヶ関の中心部に入ると、平川に架かる橋を渡ったところに、一般に言われる碇ヶ関番所の「大橋番所跡」がある。ここは関所跡の標石が残るだけである。
 碇ヶ関には、町奉行が派遣され、津軽三関の中でもっとも備えが厳重であった。その碇ヶ関の様子を、1984(昭和59)年に観光施設を兼ねて「
碇ヶ関関所」として復元し、北門には「高麗門」、南には「冠木門」が作られたが、現在はJR碇ヶ関駅近くの道の駅「いかりがせき 関の庄」に高麗門とともに移築されている。
碇ヶ関御番所(大橋番所)跡と現在の番所橋
写真左側に旧道(旧橋)跡が残っている
番所橋を越えた西側の旧道脇に建つ碇ヶ関番所跡の石碑
道の駅「いかりがせき 関の庄」に高麗門とともに移築された碇ヶ関関所(復元)
               現在の碇ヶ関の町並み。
この街道には、商人旅籠や馬喰宿が並び、左写真の急カーブのあたりが
枡形になっており制札場があったと言われる。
国道7号は現在でも急なカーブ、車道は狭く歩道も無い状態である。
宿場の陰は無いが、昔のままの道路である。
十六夜橋(いざよい)付近西側に建つ石碑
脇道番所之跡
碇ヶ関古懸(こがけ)に残る旧国道跡 S43一次改築最後の碇ヶ関跨線橋 跨線橋から旧道を望む(砂利道)
S43まではこの砂利道を使用
近くには津軽真言五山のひとつ
古懸不動尊国上寺がある。