シリーズ:平内町土屋はいま!
は・・・奥州街道・・・
○奥州街道とは…
 奥州街道は、江戸日本橋を起点とする近世「五街道」のひとつです。
 宇都宮〜白河〜福島〜仙台〜一関〜盛岡〜野辺地〜青森を結び津軽半島の三厩までの日本で最長の街道でした。
 街道沿いには、宿駅があり、東海道五十三次に対して、奥州街道は百十四次を数えました。
○奥州街道=国道4号
 奥州街道は、明治六年「河港道路修築規則」が制定され、種類、等級が定められ「陸羽街道」と改称、「一等道路」となりました。
 明治九年に大政官達第60号で「一等国道」となりこの時から「国道」の名前が誕生しました。
 明治十八年二月には内務省告示第6号で国道表を定め、ここで初めて国道の路線が確定し、東京から仙台・青森を経て函館港に至る路線が「国道6号」となりました。
 大正九年四月一日に、「旧道路法」が施行され、内務省告示第28号で国道6号は北海道庁まで延長され「国道4号」となりました。
 昭和二十七年十二月、「国道4号」は青森市までに、名称は「一級国道4号」となりました。
 昭和三十九年七月に級別が廃止となり、昭和四十年三月から「一般国道4号」と指定され現在に至っています。
 このような経緯から「奥州街道」は、現在の国道4号なのです。
 ちなみに、青森から三厩までは、国道280号となっています。
平内町における奥州街道の軌跡

○藩境塚
 青森県の東部は、旧盛岡藩・八戸藩領です。
 奥州街道は、三戸〜浅水〜五戸〜伝法寺〜藤島〜七戸を通り、長者久保を経て野辺地に至ります。
 野辺地で陸奥湾を望み左折し馬門番所を少し過ぎたところに県指定史跡の「四ツ森」(「四ツ塚」)があります。
 ここが、盛岡・弘前両藩の藩境です。藩境だった二本又川を挟んで二基ずつ小さな山が残っています。川の南側が旧馬門村、北側が旧狩場沢村となっています。
 ちなみに、このあたりは十和田国道維持出張所と青森国道維持出張所の管理境界ともなっています。
  藩境塚(四ッ森)とは…
 弘前津軽藩と盛岡南部藩において、境界に関する係争が耐えなかったため、現在の野辺地町馬門と平内町狩場沢間を流れる二本又川をはさんで、東西に相対する丘を築きそれを境界標としました。これが、現在「四ッ森」「四ツ塚」と呼ばれる藩境塚として残っています。
 奥州街道はこのあたりを通っていました。

 天気が良いと下北半島が望め、風力発電の風車や釜伏山も見えます。
↓海を望む盛岡・弘前藩境塚「四ツ森」「四ツ塚」

 平内町の歴史 (平内町勢要覧より)

 平内(ひらない)は蝦夷語の「ビラナイ」が語源とされています。
 「ビラ」は山と山の間、「ナイ」は河川の意で「山と山の間の川が流れる土地」という語義があります。
 東艦によると、平内地区は「平内郷」と呼ばれ、鎌倉時代から南北朝時代末までは南部領糖部郡に所属し、550年前の永享年間には津軽田舎郡の所領となりました。
 元亀・天正の頃に七戸隼人が現在の福館に城を築いて平内郷一帯を支配しましたが、津軽為信公の外ヶ浜(現在の東青地区)討平の際、軍門に降り、津軽領となりました。
 明暦2年に津軽十郎衛門信英が平内郷を賜り黒石領になった時、各村に大庄屋をおいて村内を監督させるとともに小湊に役所を開き、代官二人をおいて一帯を治めました。東は狩場沢、西は土屋に関所を設けました。
 明治4年の廃藩置県で青森第一大区、七小区に編入され、平内村の呼称小湊に戸長役場がおかれました。
 明治22年の村制が布かれて東平内、中平内、西平内の3村に分かれましたが、昭和3年、中平内は小湊町として町制を布きました。
 昭和30年3月31日、町村合併促進法に基づいて3か町村が合併して、町名を歴史的に意義深い平内町として現在に至っています。

 弘前津軽藩

 南部家家臣の大浦為信が、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣。秀吉から直接津軽地方の所領を得たことから、南部家とは独立の大名としての位置を得る。
 その後、津軽為信と名乗って弘前藩・津軽藩の祖となる。
 この立藩の経緯から、隣藩の南部藩とは係争が絶えなかった。
 当初4万5千石であったが、上野国勢多郡(群馬県太田市)に2千石を与えられ4万7千石。
 江戸後期には、蝦夷地警備等の名目で7万石となり、ついで10万石となった。
 津軽藩は、津軽平野の新田開拓によって、元禄期には実質30万石を越えていたともされる。
 黒石津軽藩

 弘前藩三代藩主信義が1655年に死去。
翌年幕府は嫡子信政に跡目相続を許すが11才と幼少であったため二代藩主信枚の二男津軽信英が、後見役に任命された。
 その後見として、4千石の分知を受けて交代寄合となって、居所を黒石に定めた。
 時代下って津軽親足が宗藩弘前藩主津軽寧親から6千石を与えられ、諸侯に列した。



○狩場沢番所
 藩境塚(四ッ森)から青森方面へ少し行くと、当時「狩場沢番所跡」があったようです。が、現在のどのあたりにあったか、確認するものはありません。
←藩境塚から狩場沢番所へ続く
 奥州街道の跡と思われる道の
 名残が、今なお残っています。
○小湊宿(小湊代官所)
 現在の平内町の中心部・小湊地区には、「小湊代官所」が置かれていました。一帯には「御家中」という武家屋敷もあり、ちょうどこのあたりを奥州街道が通っていました。現在も黒松の大木などがあり、当時を忍ばせるものとなっています。
○土屋御番所
 平内町の土屋地区には、黒石藩平内領の西側にあたる領境の警備のため「土屋御番所」が置かれました。以前は国道4号沿いのその跡に、番所の標柱と説明板がありましたが、現在の同位置には、「ほたて供養塔」(ほたて広場構内)が立っています。また、ほたて広場内の建物入り口にその由来を示す表示板が設置されています。
土屋御番所由来の表示板 ほたて供養塔