VOL.1
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3. アスファルト舗装と秋田の意外な関係

 今や日本の国道の約90パーセントを占めるアスファルト舗装ですが、実はこのアスファルトを日本で初めて製品化したのは、我が秋田の黒沢利八という人物だったのです。
イラスト  明治10年4月15日、第3回内国勧業博覧会が開催されました。この国内品向上のために国が開いた博覧会において、秋田の黒沢利八が出品した「レキセイ」に賞杯が送られたのです。そして、しばらくたった後に、東京の神田昌平橋の舗装に「アスファルト」の名で採用されました。これが日本で初めてのアスファルト舗装です。

INDEX
■黒沢利八という人物について
■なぜ、すぐに採用されなかったのか?

■黒沢利八という人物について

●黒沢利八…1849(嘉永2)〜1920(大正9)
 秋田県の産業の歴史に不滅の光をかかげる開発者のひとりです。先祖は天明年間(1780〜1787)の初代利八で、付近の土が油っこいこと、つまり油土であることに着目してすでに研究を始めていたのでした。子孫は苦行を重ねつつも「油土」=「レキセイ」の改良にはげみ、最後の利八がついにアスファルトの製造に成功したのです。

■なぜ、すぐに採用されなかったのか?

 利八が出品したアスファルトには賞杯が贈られ、優れた物であることが認められました。しかし、実際に舗装材として採用されたのは、博覧会の開催からしばらくたった後のこと。なぜ、すぐに採用されなかったのでしょう? 調べたところ、本来であれば利八のアスファルトは博覧会の会場の舗装用に使われるはずだったというのです。

 当時、アスファルト舗装はロンドンでわずかに使用されていただけで、世界的にも新しい技術でした。博覧会の前年、当時の東京府知事がロンドンでアスファルトの道路を見学していたく感心し、さっそく博覧会の会場の舗装に採用することを決めました。そして秋田の黒沢家からアスファルトが取り寄せられ、工事が始まったのですが…。

 ところが、作業員の不注意からアスファルトを加熱しすぎて火が点き、工事現場で大騒ぎとなったのです。これが原因で工事は中止となり、燃える材料は危険であるとの声が高まって他の材料に変えられてしまったのでした。やはり、当時にすれば、油を原料とするものは燃えるとの先入観があったのでしょう。

イラスト  神田昌平橋のアスファルト舗装は、希望を捨てきれなかった当時の東京府知事・由利公正の執念で実現したと言っても過言ではないでしょう。由利知事は、将来の日本の道路のあるべき姿をアスファルト舗装に見出しながら、若くして暗殺されたのでした。生きていれば、当時の日本の道路開発も大きく変わっていたかもしれません。

 ちなみに舗装された国道が最初にできたのは、二十数年後の明治36年(1903年)のことでした。




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