HOME 観光 菅江真澄の足跡と秋田・再発見 真澄と歩く道と村
 菅江真澄が旅をしていた江戸時代後期、今の秋田市金足(かなあし)追分の三叉路付近は、村もなにもない砂丘のふもとで、羽州街道と男鹿街道の追分になっていました。真澄は文化元年(1804)の日記『男鹿の金風(おがのあきかぜ)』に、この追分三叉路の図絵を載せています。
 図絵の説明文には「男鹿の島に行く分かれ道がある。大木の榎(えのき)があるので、榎の追分といい、木の根で狐(きつね)を作っていることから、狐の追分という人もある」とあり、分かれ道のまわりには、道しるべ、狐の彫りもの、石仏、榎の木。そして男鹿街道(左)と羽州街道(右)を行く旅人が描かれています。
 年ごとに吹きつける砂に榎もわずかに顔を出しているばかりで、周辺に木一本もない殺風景な追分の風景は、車が行き交う現在の様子とは全く異なります。でも、今もこの地が国道7号と男鹿街道の三叉路を形づくり、交通の要所となっているのは、200年前と同じです。

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