HOME 観光 菅江真澄の足跡と秋田・再発見 菅江真澄はこんな人




晩年の菅江真澄を描いた肖像画(能代市・杉本家蔵)。
真澄はいつも頭巾(ずきん)をつけていたことから、秋田の人々に「常被り(じょうかぶり)の真澄」と呼ばれていました。

 菅江真澄は、江戸時代の宝暦(ほうれき)4年(1754)、三河国(みかわのくに・愛知県東部)に生まれました。ただし、旅に出る以前の故郷に関する資料は少なく、正確な出生地(しゅっしょうち)、家族構成などはわかっていません。
 30歳ころに故郷の三河を離れ信濃国(しなののくに・今の長野県)に旅立ちました。そのあと、越後(えちご・新潟県)から庄内(しょうない・山形県)を経て秋田に入り、津軽(つがる・青森県)、南部(なんぶ・岩手県)、仙台(宮城県)、蝦夷地(えぞち・北海道)、下北半島(青森県)などをめぐりました。48歳のときに津軽を経て再び秋田へ入ってからは、亡くなるまで秋田領内を離れることはなく、今の秋田県内のほとんどの市町村に足跡をしるしています。
 文政(ぶんせい)12年(1829)7月19日、真澄は仙北郡(せんぼくぐん)で亡くなり、久保田(今の秋田市中心部)郊外の寺内村に葬られました。生前親しかった人たちも年齢をはっきり知らなかったためか、墓碑には七十六、七歳と刻まれています。
 真澄は旅をしながら『菅江真澄遊覧記(すがえますみゆうらんき)』と総称される旅日記を書いたほか、随筆(ずいひつ)や秋田藩の地誌(ちし・その地方の地理をしるした書物)なども著しました。200冊以上に及ぶ著作のうち77冊12帖が国の重要文化財に指定され、近世の歴史民俗を記録した第一級の資料として高く評価されています。


菅江真澄の足跡マップ▼
菅江真澄が歩いた東北・北海道の旅のルート。(ただし、秋田県内はほぼ全域を歩いているため書き込みを省略しています)






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