栗子峠の歴史 -戦後-

■通年通行可能な国道へ

 昭和23年には建設省が設置された。それまでの内務省仙台土木出張所は、建設省東北地方建設局となり、戦後の経済復興のために本格的な道路整備に着手することになった。
 昭和32年に第二次道路整備5ヵ年計画が閣議決定され、増加する交通需要に対応するための道路整備が急がれることになった。
 戦前に改良された栗子道路は、ようやく自動車の通行可能な道路に生まれ変わったものの、道路はいたるところで屈曲が多く、急勾配の連続する厳しい線形となっていた。さらに、冬期5ヶ月間は2メートルを超す積雪のため、交通止めを余儀なくされていた。
 このため、昭和32年から新たな道路建設のための調査が開始された。綿密な調査の結果、それまで900メートルであったトンネルの標高を600メートルまで下げる計画とした。また、路線選定の段階では、板谷地区を経由せず奥羽山脈を一本のトンネルで貫くルートも検討された。
 しかし、この場合のトンネル延長が6キロメートル近くにも達することが明らかとなり工事の施工性や供用後の換気の問題を考慮し、東と西の2本のトンネルで抜ける計画に修正されたのである。
 工事は、昭和36年度にアプローチ区間の工事に着手し、さらに昭和38年度から東西の2つの栗子トンネル工事が始まった。東栗子トンネルは延長2,376メートル、西栗子トンネルは延長2,675メートルで、完成当時、国内では関門トンネル(3,461メートル)、新笹子トンネル(2,953メートル)に次ぐ、第3位と第4位の延長を誇る長大トンネルであった。
 こうして、国道13号の最後の難所であった栗子峠の改築工事は、昭和41年5月29日に、 福島市飯坂町中野字長老沢~米沢市万世町大字刈安字越石間の11.6キロメートルが全線供用を迎えたのである。
 この三代目の栗子道路は、豪雪のため閉ざされていた冬期5ヶ月間の交通を確保し、通年交通を可能にした。