2.河川の現状と課題
(1)水害の歴史と治水事業の沿革
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1)水害の歴史
最上川における洪水の原因としては、融雪(ゆうせつ)によるものと大雨によるものに大別されるが、これまで大きな被害をもたらしてきた洪水は大雨によるものが大半である。大雨の原因としては、地理的条件から台風によるものは比較的少なく、前線性降雨や温帯低気圧によるものが多い。
過去に甚大な被害をもたらした主な洪水は表1のとおりである。
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表1 主要洪水の状況 |
洪水年月日 |
原 因 |
被 害 状 況 |
大正2年8月27日
(1913)
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台風+前線
(馬見ヶ崎川大洪水) |
須川は既往最大の洪水、県南部を中心とした豪雨、
家屋流失6戸、浸水537戸、
堤防決壊・破損1,339m、
道路損壊3,049m、橋梁流失5ケ所 |
昭和28年8月13日
(1953) |
寒冷前線
(最上豪雨) |
最上・庄内地方を中心とした豪雨、
死者1名、負傷者1名、
家屋流失2戸、半壊床上浸水261戸、
床下浸水748戸、一部破損17戸、非住家291棟、
農地浸水27,384ha、堤防決壊33ケ所、
道路損壊45ケ所、橋梁流失44ケ所、 |
昭和42年8月28日
(1967) |
前線+低気圧
( 羽越(うえつ)豪雨 ) |
上流部は既往最大の洪水、県中・南部を中心とした集中豪雨、激甚災害に指定された
死者8名、負傷者137名、
全壊流失167戸、半壊床上浸水10,818戸、
床下浸水11,066戸、
農地浸水10,849ha、宅地等浸水2,330ha、 |
昭和44年8月8日
(1969) |
低気圧 |
中・下流部は既往最大の洪水、庄内・最上地方を中心に32市町村にわたり甚大な被害
死者2名、負傷者8名、
家屋全壊流失13戸、半壊床上浸水1,091戸、
床下浸水3,834戸、非住家1,988棟 |
昭和46年7月15日
(1971)
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温暖前線 |
京田川では既往最大の洪水、県内中・北部を中心に大きな被害
死者4名、負傷者6名、
家屋全壊流失13戸、半壊床上浸水1,056戸、
床下浸水5,383戸、一部破損14戸、非住家821棟 |
平成9年6月27日
(1997) |
台風8号
梅雨前線 |
村山、最上地方を中心に内水及び無堤部浸水被害床上浸水9戸、床下浸水72戸、宅地等浸水3.1ha農地浸水1,612.5ha |
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出典 |
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大正2年、昭和28年は「山形県60年間の異常気象(1901〜1960)気象庁」
昭和42年、平成9年は「水害統計 建設省」
昭和42年の死傷者数、昭和44年、昭和46年は「山形県消防防災課災害年表」 |
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写真5−1
被災状況:羽越豪雨(S42.8)
川西町西大塚地区(幸来橋左岸)
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写真5−2
被災状況:羽越豪雨(S42.8)
白鷹町箕和田地区・鮎貝地区
(荒砥橋付近)
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写真5−3
被災状況:S44.8洪水
戸沢村古口地区 |
写真5−4
被災状況:S44.8洪水
大石田町大石田地区 |
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2)治水事業の沿革
最上川の治水は、古くは米沢藩主上杉景勝(うえすぎかげかつ)の重臣直江兼続(なおえかねつぐ)が、米沢城下を洪水から守るために「谷地河原石堤(やちかわらせきてい)」を築いたことに始まる。その後、度重なる洪水により破損した堤防を修理するなど、治水を第一義とした工事が行われ、現在でも先人の大きな偉業は「直江石堤(なおえせきてい)」として残されている。さらに、最上川は古くから航路(こうろ)として広く利用され、産業流通の重要な役割を果たしてきた。舟運として発展したのは戦国時代であり、山形の城主、最上義光(もがみよしあき)によって航路維持のための工事が行われた。
本格的な治水事業は、庄内地域においては明治42年4月洪水を契機に、大正6年に清川(立川町)から河口部までの32kmと、当時の支川赤川の鶴岡下流から最上川合流点までの24kmについて築堤(ちくてい)工事に着手したのが始まりである。その後、洪水による被害を軽減するため、支川赤川を直接日本海に注ぐ放水路※1ほうすいろが計画され、昭和11年に完成した。しかし、昭和19年7月洪水等その後も氾濫による被害が相次いだため、昭和29年には赤川旧川を締切ることとなり、最上川水系から分離され独立した水系となった。村山及び置賜地域については、昭和8年に大石田上流の本川79km、支川須川等19kmの計98km間について、米沢市、長井市、村山市等の氾濫被害の大きな都市部周辺から工事に着手した。また最上地域については、昭和32年に立川町清川から大石田までの約63km間が国直轄施工区域として編入され、これにより最上川は河口から上流まで一貫した治水計画が樹立されることとなった。この間、主に月山周辺からの大量の土砂流出に対処するため、昭和12年に直轄砂防(さぼう)事業、昭和37年に直轄地すべり対策事業に着手している。
しかし、昭和42年8月、昭和44年8月とこれまでの計画を上回る未曽有の大洪水が相次ぎ、流域内資産の増大及び沿川の開発に鑑み、河川の改修とともに、ダム、遊水地※2ゆうすいち等の洪水調節施設の建設が計画され、白川ダム及び寒河江ダム、大久保遊水地を完成させ、現在に至っている。
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表2 最上川の治水事業の経緯 |
年 月 |
主 な 事 業 |
着手の契機 |
大正6年 |
下流部、直轄改修事業着手 |
明治42年4月洪水 |
大正10年 |
赤川放水路着手(昭和11年通水) |
〃 |
昭和8年 |
上流部(須川を含む)、直轄改修事業着手 |
大正2年8月洪水 |
昭和12年 |
最上川水系直轄砂防事業着手 |
第3次治水計画 |
昭和29年 |
赤川を締切(最上川水系から分離) |
昭和19年7月洪水 |
昭和32年 |
中流部、直轄編入事業着手 |
大正2年8月・ 昭和19年7月洪水 |
昭和37年 |
最上川水系直轄地滑り対策事業着手 |
地滑り防止区域に指定 |
昭和46年5月 |
白川ダム建設着手(S55.10完成) |
大正2年8月洪水 |
昭和47年 |
鮭川直轄編入、事業着手 |
昭和44年8月洪水 |
昭和49年4月 |
寒河江ダム建設着手(H2.11完成) |
昭和19年7月洪水
昭和42年8月洪水
昭和44年8月洪水 |
昭和52年8月 |
大久保遊水地建設着手(H9.3完成) |
昭和59年4月 |
長井ダム建設着手(建設中) |
平成 元 年4月 |
最上川中流堰着手
(H7完成 最上川さみだれ大堰) |
下流部掘削に伴う河床の維持
及び取水位の確保 |
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※1 放水路 |
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河川の途中から新たな河道を開削して、海又は湖或いは他の河川などに放流する水路
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※2 遊水地 |
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洪水時の流水の一部を一時貯留し下流へ流れる流量を減ずるため、人工的に造られた地域 |
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