青森の吉田松陰
   
 高杉晋作をはじめ明治維新に活躍した多くの弟子を育て、数え30歳で刑場の露と消えた長州の志士・吉田松陰。
 江戸に留学中、ロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく、脱藩覚悟で東北へ旅立った。嘉永4年(1851)の旧暦12月、弱冠22歳の時である。
 翌年3月、彼は熊本藩士宮部鼎蔵とともに津軽半島に達した。『東北遊日記』に「真に好風景なり」と書かれているのは、中里の十三湖岸の景色のことだ。
 3月5日、2人は小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入る。当時津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じて道をつくっていなかった。谷間をのぼり、 膝まで水に漬かりながらあちら側、こちら側と沢を幾度も越えてようやく算用師峠の頂上に至る。嶺を下ると、2、3尺も雪が残っており、雪の中を歩き、さら に雪解け水が大流となっている川を何度も渡って、「困苦太甚し」という苦行の末に、やっと三厩の海岸に出たという。
 昭和43年、「松陰先生足跡踏破の会」(代表・漆畑直松氏)が発足した。当時は松陰が歩いた頃と同じような道なき道で、会は広く青少年に呼びかけてこの 道を辿る行事を行った。一方、道の整備を県に陳情し、現在は「みちのく松陰道」と名付けられた12キロのハイキングコースとして、整備されている。踏破の 会はその後「青森県歴史の道整備促進協議会」に発展し、活動している。会長の塚本恭一氏(中里町長)は、「命を捨ててまでも国を想うという松陰ゆかりの道 を、多くの人に知ってほしい」と語る。
 緑深い算用師峠。ブナやヒバなどの木もれ日がさす小道には、ガクアジサイや深山特有のサンカヨウなどの野草が生い茂り、虫の音が響いていた。
                    (協力…漆畑直松氏)
      
●松陰は弘前からこの地へ入り、平舘から舟で青森方面に向かった。
●みちのく松陰道へは、青森市から車で約1時間10分(国道280号経由)。五所川原市から車で約1時間30分(国道339号→県道鰺ケ沢蟹田線→県道今別蟹田線経由)
 若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。小泊から算用師峠を越え て三厩の海岸に出るが、その途中詩作している。「去年今日発巴城(去年の今日巴城を発し)…」で始まる詩文は、昭和41年竜飛崎に建立された「吉田松陰詩 碑」に刻まれている。2人は、三廐から海沿いに今別へ向かう。袰月海岸の波打ちぎわにある洞門は、彼がここを通り抜けたことから「松陰くぐり」の名がつい た。
 袰月に宿をとった松陰は、竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことであると悲憤している。
 松陰が翌日訪ねた平舘には、砲台があった。「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があるのは すこぶる佳いこと、また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。
 この砲台場は松陰がこの地を訪れる4年前に、幕府の命により津軽藩が築造したものだ。高さ2メートル、長さ90メートルの扇形の土塁には松がぐるりと植えられ、海上からは見えにくい工夫が施されていた。現在もその名残を留め、「お台場跡」と呼ばれている。
 このお台場跡のすぐ側を南北に走る国道280号には、1キロにわたって見事な黒松の並木が続いている。およそ300年前の津軽4代藩主信政によって植樹 されたとも伝えられる。この道は、松前藩が参勤交代で通ったことから「旧松前街道」の名がある。おそらく松陰たちもこの松の並木道を歩いたことだろう。そ してこの村から、魚を積んで青森へ行く舟に便乗させてもらい、津軽半島に別れを告げた。

 これまで2回にわたって、「みちのく松陰道」を中心に吉田松陰の歩みを紹介してきたが、今回は彼が秋田領から津軽領へ入ってきた時の道をたどってみる。

  嘉永4年(1851)旧暦12月14日、北方の海防状況を確かめるために江戸を出立した吉田松陰と宮部鼎蔵は、途中水戸、会津若松、佐渡などに立ち寄った 後、新潟から日本海沿いに北上した。白沢(秋田県大館市)を出て藩境・矢立峠にさしかかったのは、翌年旧暦閏2月29日(新暦4月18日)。日記に「峠の 雪深さ尚2尺余あり、杉木繁茂して鬱蒼としている」と記している。この道は、福島県桑折から山形・秋田を経て弘前・油川へ至る「羽州街道」。現在の国道7 号にほぼ沿っている。大館市赤湯から矢立峠を越えて碇ケ関村湯の沢温泉郷近くまでのつづら折りの山道が、今もその姿をとどめる。現在、松陰の足跡をたどる 「歴史の道・矢立遊歩道」として整備され、大館・碇ケ関どちらの入り口からも、峠まで30分ほどのハイキングコースになっている。
 矢立峠を越えると、関所(碇関)があった。松陰たちも通行したその関所は「碇ケ関御関所」として復元され、往時を偲ぶことができる。彼らは、古い温泉場と して知られる碇ケ関の湯で汗を流し、旅の疲れを癒した。だが心急ぐのか宿泊はせずに、その日のうちに大鰐、石川を経て弘前へ向かう。雪解け水があふれる道 を歩きつつ、広々とした田んぼの向こうにそびえ立つ岩木山を眺めた松陰は、「三峯魏然としてさながら富岳(富士山)の如し」と書き残している。こうして2 人は、津軽10万石の城下町弘前へ入った-。


弘前に到着した吉田松陰と宮都鼎蔵は、翌日の旧暦3月1日、津軽藩校教授の伊東広之進を訪ねた。若い頃に江戸や大阪に遊学し海防に詳しいこの儒学者から、北辺の防備状況を聞くためである。
 伊東は「津軽の海岸線は50里。小泊や竜飛など9カ所に砲台が設けられ、三馬屋(三厩)と平舘には守備隊も置かれている。数日前の2月25日にも夷船が 津軽と松前の間を通り、1泊して立ち去った」ことなどを語った。また、萩の藩校・明倫館で教鞭をとっていた松陰は、津軽藩の学制などについても詳しくたず ね、記している。「学校を稽古館といい、古くは城外にあり文武を兼ねて教えていたが、財政困窮のため城内に移して規模を縮小、今は文のみに力を入れてい る」等々。伊東が、松陰の家学である山鹿流の兵学を講義していることもあって、話は大いにはずんだようだ。
 翌2日、松陰らは山鹿家の流れをくむ荒谷貞次郎宅を訪問した後、弘前城のまわりをぐるりと一周して宿(本町にあった旅篭「相庄」ともいわれる)に戻っ た。そして旅支度を整え、暇乞いのために伊東のもとを訪れると、彼は別離の詩を用意して待っていた。松陰も即興の詩で応えたり話に熱中するうち、申の刻 (午後4時)になってしまう。−この伊東宅は明治39年から「養生幼稚園」となり、弘前城追手門近くに今も残る。弘前市の史跡に指定され、歓談した部屋は 「松陰室」と命名されている。
 出立が遅れた松陰らは、その日はわずか1里先の藤崎で宿泊。その日の日記には津軽藩の農政批判が記されているほか、観光的な事柄には滅多に触れることのな い松陰が珍しく「弘前の杉(茂)森に劇場あり」と書き残している。これは、現在の城西大橋近くに元禄4年(1691)から昭和15年(1940)まで続い た芝居小屋「茂森座」のことである。

 これまで4回にわたって青森県内の吉田松陰ゆかりの道を紹介してきたが、津軽海峡の防備状況を確かめるべく彼がこの地にやって来たのは、嘉永5年(1852)の春まだ浅い季節だった。
 この旅中最大の困難は、小泊から山越えして三厩へ抜ける行程であった。往時津軽藩は防衛上から旅人がこの道を通ることを厳禁し、道を作っていなかった。 そのため松陰は冷たい水に膝まで浸かりながら谷間の道なき道を登り、ようやくたどり着いた算用師峠の頂上からは、まだ2、3尺も残っている雪の中を歩き、 進むほどに水かさを増していく川を幾度も越えなければならなかった。
 松陰が算用師峠で詠んだ詩文の碑が昭和41年竜飛崎に建立されたことをきっかけに、この道の踏破の会(青森県歴史の道整備促進協議会の前身)が結成され 活動するが、その頃もケモノ道のような状態だったという。関係者の熱心な陳情により、昭和54年から全長12キロのハイキングコース整備が進められ、「み ちのく松陰道」と名付けられた。小泊と三厩双方のその出入り口には、黒御影石の道標も建てられている。
 去る5月31日、小泊側入り口の傾り石で「みちのく松陰道」完成式典が行われた。最初の整備から20年近い年月を経て、昨年秋から総工費約2,700万円 をかけて行われていた最後の工事が終了したのだ。式典には県歴史の道整備促進協議会長である塚本恭一中里町長ら多くの関係者のほか、松陰の出身地萩市から 野村興兒市長も駆けつけ、共に祝った。
 その中に、漆畑直松さんの感慨深い顔もあった。詩碑建立時から関わり、現在は協議会の事務局長を務めている方だ。こうした方々の熱意が込められて、「みちのく松陰道」は完成したのである。


 平舘で魚を運ぶ舟に乗せてもらった吉田松陰と宮部鼎蔵は、旧暦3月7日早朝、青森の港に着いた。人家はまだ眠りの中にあり、寒さを避けて浜辺の船蔵に入っ て仮眠する。そして人々が起き出すのを待って青森市中で食事を取ると、すぐさま「奥州街道」へ歩を進めた。藩政時代の五街道の一つで、盛岡・白河を経て江 戸へ続く、現在の国道4号にほぼ沿う道である。浅虫・狩場沢を過ぎて馬門から先は南部領となり、その日は野辺地泊。当時南部藩港であった野辺地は、この地 方の経済や文化の中心地として栄えた港町だった。
 翌8日宿を出て七戸へ行く道は荒漠とした原野が続き、道傍に樹木が植えられていた。途中、4人のマタギ(猟師)に出会う。犬を連れ、獣の毛皮で作った外 套を身につけ、それぞれが鉄砲や鉾を手にしている。彼らは「これから熊撃ちに行くところだ。今年はまだ1頭も捕っていないが、去年は5、6頭捕った。熊撃 ちは毎年春の彼岸から始まる」と話してくれた。
 やがて松陰らは七戸を経て五戸に入り、郷士(郷村に住む武士)の藤田武吉を訪ねた。藤田は、五戸に住む60名ほどの郷士は皆禄高が低いために、ほとんど が農業で暮らしを立てていることや、この辺りで多く採れる大豆は馬の背に乗せて野辺地へ運び大阪へ移出すること、近辺に牧場が数カ所あることなどを語っ た。
 翌9日烈風の中、三戸に向かう。三戸は五戸よりも大きな町で、郷士の数は100名、別に同心(身分の軽い武士)が40名いるという。かつての南部氏の居城 であった三戸城の跡(現在の城山公園)に立ち寄った後、松陰らは蓑ケ坂を越えて青森県に別れを告げた。蓑ケ坂の手前にある駕籠立場には、平成元年松陰の 「東北遊日記」の抜粋を刻んだ記念碑が建てられている。(完)