イサベラ・バードが歩き記した青森
  秋田県から青森県に入る道中で豪雨に見舞われて碇ケ関で2日も足どめされたことで、洪水の被害状況などが克明に記され興味深い。

第28信より

 ゆるやかな勾配の長いジグザク道を登って矢立峠に出る。この頂上にはりっぱな方尖塔がある。これ は砂岩を深く切ったもので、秋田県と青森県の県境を示す。これは日本にしてはすばらしい道路である。傾斜をうまくゆるやかにして築きあげ、旅行者が休息す るための丸太の腰掛けも便利な間隔で置いてある。この道路をつくるために発破をかけたり勾配をゆるやかにしたり、苦労の多い土木工事だったろうが、それも 長さ4マイルだけで、両端からはあわれな馬道となっている。私は他の人びとを残して、1人で峠の頂上まで歩いて行き、反対側に下りた。そこはあざやかな桃 色と緑色の岩石に発破をかけて作った道路で、水が滴り落ちて光り輝いて見えた。私は日本で今まで見たどの峠よりもこの峠を賞め讃えたい。(中略)
 私たちは幸運にも2頭の駄馬に出会った。その馬子たちは大館へ行く道路が不通になっていることを知らなかった。彼らと私の馬子たちは、荷物を交換した。 これらは強い馬で、馬子は熟練しており、勇気があった。彼らは、もし急げば彼らが出てきた村へなんとか行きつくことができるだろう、と語った。しかし話を しているうちに、下の橋が流されてしまった。彼らは、私を荷鞍にしっかり結びつけてあげよう、と言ってきかなかった。あの大きな谷川は、前にはその美しさ を賞賛したのだったが、今ではもう恐しいものとなり、浅瀬がないところを4度も歩いて渡らねばならなかった。(略)

 碇ケ関では子供の遊びを観察したり、湯治客の眼病治療などをして過ごしている。その後黒石に。ここでは天候も良くなり、着いてすぐ美しく絵のようなねぷた祭りに出会い感動し、中野紅葉山や湯治場なども見物した。

第29信より

 これは人口5,500の清潔な町で、下駄や櫛の製造で有名である。私はこの町で、とてもきれい さっぱりして風通しのよい2階の部屋に案内された。あたり一帯の景色もよく見えるが、隣の家の人たちがその奥の部屋や庭園で仕事をしている様子も見えた。 青森まで直行せずに、ここで3日2晩滞在している。天候も回復し、私の部屋もすばらしく気持がよいので、この休息はたいそう愉快である。(中略)
 竿は高さ20フィートもあり、提燈それ自体が6フィートの長さの長方形で、前部と翼部がある。それにはあらゆる種類の奇獣怪獣が極彩色で描かれている。 事実それは提燈というよりもむしろ透し絵である。それを取り囲んでいるのは何百という美しい提燈で、あらゆる種類の珍しい形をしたもの−扇や魚、鳥、凧、 太鼓などの透し絵がある。何百という大人や子どもたちがその後に続き、みな円い提燈を手に持っていた。行列に沿った街路の軒端には、片側に巴を描き、反対 側には漢字を二つ書いた提燈が列をつくってかけてあった。私は、このように全くお伽噺の中に出てくるような光景を今まで見たことがない。提燈の波は揺れな がら進み、柔い灯火と柔い色彩が、暗闇の中に高く動き、提燈をもつ人の姿は暗い影の中にかくれている。この祭りは七夕(タナバタ)、あるいは星夕(セイセ キ)祭と呼ばれる。(略)

第31信より

 上中野は非常に美しい。秋になって、星の形の葉をつけた無数の紅葉が深紅の色をつけ、暗い杉の森 を背景として美しく映えるとき、森の中の大きな滝は雪の降るように白く輝きながら下の暗い滝壺に飛び散り、遠く旅をしてやって来る価値が充分にあるにちが いない。これほど私を喜ばせてくれたものを今まで見たことがない。(略)

 青森の街にはほとんど滞在せず、慌ただしく汽船で北海道へ渡り、旅を続けて『日本奥地紀行』を終えている。

第32信より

 黒石から青森までの旅は、たった22マイル半だが、道路が悪かったために、ものすごい旅であった。(中略)
 本州を縦断する山脈は南部地方で陥没するが、青森湾でふたたび大きくて険しい山となって聳える。しかし黒石と青森との間は、低い山々に分れる。林もまば らで、主として松や楢、樫の雑木林、短い竹である。蚊取線香をつくる原料の胡麻(除虫菊?)が他の草花をおしのけて一面に生えている丘もある。谷間には稲 が栽培されているが、耕作地はあまりない。この地方は荒涼として非常に寒そうに見える。
 農業を営む部落の様子はますますひどくなってきた。家屋は粗末な土の家で、横に穴を開けて光を入れたり、煙を出したりしている。壁はただ大きな樹皮や藁束を縄で柱に結びつけているだけのものもあった。(中略)
 人びとの姿もたいそう汚かったが、特に貧困であるという様子はなかった。北海道から魚を運んできたり米を運んで行くための馬や馬子の代金として多額の金を得ているにちがいない。
 日光を出てから数多くの峠を越えて来たが、その最後の峠は浪岡にあった。津軽坂というところであった。その峠から暗い灰色の海まで起伏のある地方を見渡 すことができた。海は豊かな紫藍色で、松の茂った山々にほとんど囲まれていた。雲は流れており、色彩が強まり、空気もひんやりとさわやかで、まわりの土は 泥炭質であり、松林の香りもよかったので、故郷スコットランドに帰ったような気持にさせる風景であり、香りであった。灰色の海は青森湾で、その向うに津軽 海峡があった。私の長かった陸地旅行は終わった。(略)
 

 作者の英国女性イサベラ・バードが見て書いた約100年前の青森県。あの時代に女性1人で東洋の日本、それも芭蕉ですら訪れなかったこの地まで、よくぞ来てくれたと感動する。
 そして当時の青森県は現在とではまったく違った世界。今の私たちがタイムスリップしたら彼女以上に異邦人で、なんと遅れた地域だろうと偏見を持ったかも 知れない。しかし、彼女は問題点を指摘しつつ、良いところは良いと評価するジャーナリストの視点で正しく伝えてくれたことに感謝したい。